平城山

『平城山(ならやま)』

1) 人恋うは 悲しきものと
  平城山に もとほり来つつ
   たえ難かりき

2) いにしえも 夫(つま)に恋いつつ
   越えしとう 平城山の路に
   涙落としぬ

作詞:北見 志保子 作曲:平井 康三郎
現在では 由紀さおり・安田祥子のデュオ、あるいは鮫島有美子の歌で聴くことができます。

作詞者の北見志保子は大正11年離婚。別離して奈良に滞在。このときに、後に平井康三郎によって曲が付され有名になりました。
フランス留学中の12歳年下の志保子の恋人を、はるかに思う気持ちを平城山の故事に託して歌ったものです。

『人を恋い慕う気持ちのどうにもならない悲しさは、平城山あたりを廻り歩いて堪えがたかった』と、後にそのときの心情を語っていたそうです。

故事とは、はるか古墳時代のこと、大さざき大王(仁徳天皇)の王妃 磐之媛(いわのひめ)が紀州へ旅している間、夫が八田媛(仁徳と皇位を譲り合った菟道稚郎子の妹)という女性を妃に迎えようとし、磐之媛はこのことに立腹して筒城宮(京都府京田辺市)へ帰ってしまいます。
磐之媛は大王が必ず自分を迎えにくるとの想いで待ち続けた場所こそが、この「平城山」であるとのことを知って、いにしえの女性の気持ちに自分の気持ちを投影させて作った深い情念を感じさせる歌です。

磐之媛は没後、平城山の南斜面に位置する佐紀盾列古墳群の一つの前方後円墳に葬られたとされています。
また佐紀地方は、古墳時代には多くの王妃や高級官僚を輩出する皇室と深いかかわりをもつ地域であったとも考えられます。
平城山を越え、山田川谷を西に滝坂の峠(現国道163号線)を河内平野に降り、摂津におわす時の大王に嫁ぐ幾多の情念が、ここを通過したであろうことは想像に難くありません。

大和と南山城を結ぶ「歌姫街道」(現県道751号線)という名称は、それらの故事を彷彿させる因縁を強く感じさせます。

2009年9月20日、この故地 平城山においてオーディオ同好の志が集まり試聴会を開催します。

真空管オーディオ・関西試聴OFF会
会場はJR平城山駅前 奈良市勤労者福祉センターです。

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垂水区ジェームス山界隈

Img_0823ss_2神戸市垂水区の東部、塩屋から垂水駅にかけての間は、特に有名なわけではありませんが、ちょっと興味ある地域とおもっています。

海からこの近辺の海岸をながめると、水際から直ちに段丘が立ち上がっているのがわかります。海岸べりは現在は埋め立てされ、国道2号線、JR神戸線、山陽電鉄が平行して所狭しと走ります。このあたり道路と線路は階段状に施設され、山陽電鉄の線路は、段丘の上を走っています。画像下は山陽電鉄、滝の茶屋駅を通過する阪神直通特急,姫路行。

今年の春、阪神なんば線開通にともなって、この電車は近鉄奈良線に乗り入れます。播磨と大和が一本の線路でつながることは、なにか感慨深いものを感じます。

Dscn0016s まず、この地域に足を踏み入れる入り口は、山陽,滝の茶屋駅か国道2号線の塩屋一丁目交差点です。交差点は北行き道路がすぐ鉄道高架下となり、かつ狭路ですので、通行には注意を要します。
この北行き道路は浅い谷を登るような地形をなしており、鎌倉時代以前には前の記事で言及した『転法輪寺』があって、この地域に根をはり海峡を行き来する船や、街道を通る商人から通行税を徴収する拠点になっていたとのことです。徴収業務を行うお堂が多数建っていたため、『千坊ヶ谷』という字が伝えられています。

Dscn0110ss今このあたりは、「ジェームス山」と呼ばれていて、昭和の初期にA・Wジェームスにより外国人居住地として開発された所以によります。なを現在ジェームス山と呼ばれる範囲は、北の青山台や松風台あたりまでが含まれるようですが、本来はこの周辺が発端です。
画像上は千坊ヶ谷の坂をしばらく登っていくと右手に見える『ライオン像』、外国人居住地の入り口を守るシンボルです。画像下の建物は昭和9年に建築されたジェームス氏の居宅で、『望淡閣』とよばれています。現在は三洋電機の所有で迎賓館に利用されているとの事です。
できたら、一生のうちに一度はこのあたりに住居をかまえ住むことができればいいな、と思わせる地域です。

さて、望淡閣から足を西に進めると、周囲はぐっと庶民的な雰囲気となります。Dscn0097ss_2
滝の茶屋駅前の商店街より北上した道との四辻(画像上)を右折し北に向くと、その先はさらに急な登り勾配です。このあたりは王居殿とよばれる住宅街、その坂を登りきった突き当たりは上平尾公園、ここから周囲を俯瞰することができます。
ここは小説で主人公『垂耳王』が宮殿をかまえた場所という設定になっています。
画像下は西方を向いて高丸方面を望んでいます。その手前の低地が福田付近です。

ここ以外にも、眺望に優れた高台はいくつかあって、王居殿北隣の美山台と、最も標高の高い三洋電機塩屋教育訓練センターの敷地があり、こちらは宮殿よりも戦術的な砦に適した地勢に感じます。これらの台地をまとめて「東高丸」とも呼ばれ、王居殿も含めたこの周辺一帯は、南北朝時代から戦国時代にかけて、播磨の別所氏が出城のひとつとしてかまえた「東垂水城」の跡でもあります。

Dscn0091ss_2

王居殿の高台からかつて撮った同じアングルで海峡を撮ってみました。

前の記事でとりあげた五色塚古墳は赤○印付近で、撮影位置からは直線距離で2kmあまりでです。
逆に五色塚古墳から鉢伏山,須磨浦公園をバックに王居殿方面にレンズを向けた画像が下。撮影位置は赤○印。

     
大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ』  柿本人麻呂

この撮影取材のため歩いたのは冷たい雨が降る冬のある日。
明石海峡大橋が雨にかすんでなんとも幻想的な画。
はるか古代、明石の大王は、海峡と島を眺め同じ風を感じていた・・・・・、数年来の妄想が、今とりあえず何らかのカタチにでき、一息です。
わたくしは、またさらなる妄想にふけることにいたします。

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押熊八幡神社 旧蹟地

Z00017 奈良市押熊町の押熊八幡神社です。

大分県の宇佐神宮を本宮とする『八幡神社』は全国におびただしい数が存在します。
ご祭神は応神天皇、小説に登場する香坂、忍熊両皇子とは義理の兄弟になります。

こちらの八幡神社には、香坂王、忍熊王の旧蹟地が神社敷地内に存在します。Vfsh0025_2

 

 

その由来説明看板にはこうあります。

『・・・この日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の1人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。

Vfsh0024 古来より、連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の歴史を忍ぶことができる。忍熊王子神社の祭日は、4月18日で、当日は、宮座の者が参列して古来の儀式によりお祭をする。また農家では、昔からこの日を「だんご休み」といって農作業を休み、「よもぎだんご」を作って祖先にお供えするとともに、近隣縁者の家に配る風習がある。

ここ「押熊」は、鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の「添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。
なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「カゴ坂」は、押熊の祖先が、香坂王に因んでつけた名称であろう。』

Vfsh0026 この神社の南東約2kmには、両皇子を討伐し朝廷から排除した義母、神功皇后の陵墓があります。その規模は全長276m、奈良県内で第4位の大きさです。
それに比較して、両皇子を祀るこの旧蹟地を思うと、皇位継承の争いに敗北した皇族の悲哀を感じずにはいられません。

参考にさせていただいた こちらのサイトに、神社の詳しいリポートがあります。
近畿各地の名所旧跡、世界各地の紀行など盛りだくさんに充実しています。

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和気神社

岡山県和気郡和気町の和気神社です。

Img_0912s_2岡山方面にドライブに出かけ閑谷学校などを訪れたついでに立ち寄りました。

訪れた日は、好天にもかかわらず秋の観光シーズンから外れていたため、なんと参拝者は皆無。しかし、春の藤のシーズンや桜と紅葉のシーズンは、観光客が大挙して訪れるらしいです。

まず、参道の入り口で我々を迎えるのは、「和気清麻呂」像。この銅像は、かつて奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の玄関前にあったものですが、1983年に和気町に寄贈されたということです。わたしが小学生のころ遠足で博物館を訪れたとき、この像があった記憶がはっきり残っています。    

Img_0917sImg_0913s 社殿の配置はごくオーソドックスで、付近の風景とあいまって、ゆったりとした敷地に伸々とたたずんでいます。また、特筆されることのひとつに、和気神社には、和気氏の守護神である『狛猪』が参道鳥居前と拝殿前に鎮座しています。
道鏡事件をはじめ和気清麻呂に関する逸話など、その由来を関連サイトや文献を参照されると、いっそう興味深いことがわかるとおもいます。

Img_0914sさて、小説の展開に関する話に移りますと、記紀では、菟餓野において誓狩に出た香坂皇子を倒したのは赤い猪ということになっています。

一方、神社由緒によると、
『第11代垂仁天皇の皇子 鐸石別命(ぬでしのわけ)の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。その弟彦王(おとひこおう)を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その12代後裔が和気清麻呂公・和気広虫姫である。』
とあります。
このことより、様々な考察がなされますが、おそらく和気氏の祖先は、香坂、忍熊両皇子の討伐に、深くかかわっていたと考えるのが自然とおもわれます。

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兵庫県立考古博物館

この博物館は2007年10月に開館した新しい施設です。

Img_0890s 加古郡播磨町に在し、最寄の駅はJR山陽本線土山駅より徒歩15分と、奈良から訪れるには、出かける前に少々気合が必要です。
しかし、弥生から古墳時代にかけての住居遺跡「大中遺跡」に隣接し、先史時代において重要な地域の中心に位置していて、訪れることが無駄ではない立地であるとおもいます。
加えて、私がフネを保管している二見ボートパークより車で10分程度の至便な位置にあり、時間が許せば、いつでも利用できるメリットがあります。

さて、兵庫県は遺跡数において全国一位の座にあることはあまり知られていません。
これは、面積が広いことに加えて、瀬戸内海側、日本海側両方に他地域から文化を受け入れる窓口があったこと、九州など西日本から畿内に入る交通の要衝であったことなどが大きな要因であろうとおもいます。

Img_0900sImg_0899s この博物館は、そういった地域性を最大限に生かした展示がなされており、見ごたえがあり、一度訪れられることをお薦めできます。
古墳時代の準構造船の復元展示、高砂市竜山から奈良県見瀬丸山古墳まで運ばれた復元石棺の展示など目を見張ります。
概して、先史時代、有史古代の展示が充実しており、遺跡発掘調査の現場を再現した大規模な展示もあり、その重要性を理解することが出来ます。

また、地元有志の方々の協力を得て、来館者に積極的な学習参加を促している姿勢は、他の博物館に同様な例は少ない、すばらしい点とおもいます。

Img_0895sImg_0897s この画像の山陽道は、畿内-播磨の境界付近が、鉢伏山の裏を通る「古山陽道」として表現されています。
また明石海峡両岸に築かれた砦や狼煙台の解説など、小説の資料として有用な展示が多数ありました。

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五色塚古墳

短編小説「明石の落日」にまつわる場所の紹介、紀行第一弾です。

Dscn0042s 神戸市垂水区の山陽垂水駅と霞ヶ丘駅の中間に、この古墳はあります。
他の多くの王陵と異なり、1960年代から整備が進められ、きわめて美しい状態に復元された、全国でも珍しい例です。
復元後の全長は194mですが、近代にはいって、鉄道施設のため前方部が若干削り取られたため、本来は200m以上の規模があったとおもわれます。

Dscn0036s この古墳の埋葬者は不明です。記紀に記録さている香坂、忍熊の叛乱にまつわる説や、埋葬者は明石国造なる説、などが一般的にいわれていますが、そう簡単に因果関係を説明できない成り立ちがこの古墳にはあるようで、一段と存在の謎を深めているようです。
また、海を望む位置であるから、海運や漁業に深いかかわりをもつ人物…、という説明も同様におもいます。古墳の中心線を延長して南の方に向けると、淡路島内の重要な神社、遺跡に当ります。そういった細かい事柄に関しても、考察の幅を広げる必要があるようにおもいます。

わたしは、他にこの規模の古墳が近辺に存在せず、兵庫県内においても最大規模であること、畿内以外の播磨に存在することから、短期間ではあるけれども、ここ明石国に、大和王権と対峙する地方王権が存在したのではないかと考えています。
畿内では、三輪王権から河内王権に移行する過渡期に、なんらかの政治的な動揺にともなって、大和とは別の王権が存在しえた、そして王墓が築かれた、とうい仮説が時代的に符合するようにおもいます。

ここを初めて訪れたのは、ちょうど5年前。
そのとき淡路と海峡を望むこの場所で、“かつてここに大王が君臨していたんだ…”、そんな空気を感じた、その経験が今回の小説を書くスタートになっているようにおもいます。
小説を書いた後、先日、再びここを訪れてみて、5年前に増して一段と感慨深いものがありました。

天さかる いなの長道ゆ恋ひ来れば 明石の門より大和島見ゆ』  柿本人麻呂

海上から古墳や野島あたりを見上げて初めて知る、…海峡の両岸に漂う古代の息吹…。
速鳥の逸話とともに、マイボートの置き場所を、明石にこだわった理由のひとつでもあります。

Img_0974s おまけの画像は、垂水区名谷の『転法輪寺』。垂水区内で最も古い寺院です。五色塚古墳を訪れたあと、立ち寄りました。紅葉が実に深く、とってもきれいでした。この周辺は、奈良の秋篠路を彷彿させる地域です。この寺院に至る参堂口の集落は『中山』(所在地は垂水区名谷町)です。奈良市にも秋篠の北隣に『中山』があります。

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宙塾 PA活動近況

10月26日、御所市葛城公園でのリサイクルフェスタです。

Img_0926s_2 このイベントにPA係りとして参加して、今回で4回目となります。
この会場では、前回より、二組のスピーカーとアンプにより、音場の広角化を図っています。
メインのスピーカーは、従来通り40cmウーハーによる3way、サブは12cmフルレンジダブルによる小型システムです。
サブをスピーチ演者立ち位置の両サイドに置くことにより、はね返りモニターも兼ねています。
また、この後方は来場者の入場エントランスにもなっていますので、導入効果に関しても好都合です。

081116sImg_0939s_2 続いて、11月16日、奈良町センター「宙塾(おおぞらじゅく) こどもおん祭り発表会」です。

この日は朝からまとまった雨が降り、午前中、野外でのイベントは断念されました。
急遽、建物内の大会議室に会場を変更してイベントを進行。大人数の出し物は中止になりました。
ここでは12cmダブルが活躍。画像は紙芝居「良弁杉(ろうべんすぎ)」一座の公演です。

Img_0949s_2 午後から雨が上がり、再び野外のステージに会場を移動することに。
機材の搬送は、かなりしんどいものがありました。歳を感じます。

何回かイベントでPA係りをやってきて、いちばん問題点を感じたのは、機材の知識と重量物をかかえる体力を合わせもつ人材というのは、そう簡単にいない、ということでした。
アンプのパワーも十分ではありませんし、スピーカーの規模も、もっと充実したいという希望もあります。
それ以前に、お手伝いを引き受けてくれる方があれば、それも可能になろうかとおもいます。Img_0948s_2

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短編小説 「明石の落日」 第一話

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*** この物語はフィクションであり、史実に基づくものではありません。***

 佐紀の宮

最初の舞台は、四世紀末の倭国。佐紀の宮(奈良市佐紀町)である。
大王(おおきみ)の留守を預かる一人の王子がいた。
名は『香坂皇子(かごさかのみこ)』。足仲彦大王(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の第一王子である。
もう一人、第二王子の忍熊皇子(おしくまのみこ)が佐紀の近隣、忍熊集落(奈良市押熊町)の住民を治めていた。

『佐紀の宮』は、盆地北部の平城山(ならやま)山麓、現在の奈良市北部に存在したと推定されている。
祟神朝から景行朝にかけて繁栄した纒向宮(まきむくのみや,桜井市)にかわって、三輪王権後期に行政機構が遷都したと見られている。
なお皇居は、都とは別に、大王ごとに各地を転遷した。
この地方は、開化朝の時代より、後に和邇氏の祖となる有力豪族のテリトリーであり、多くの高級官僚、王妃を輩出する地域でもあった。
現存する佐紀盾列古墳群は、多くが王妃陵に比定されている。宮が存在したと見られる地域は、後世に平城京の造営で、その下層に埋もれてしまった。
三輪王権から河内王権に移行する過渡期に存在した都と見られるが、その規模や性質など、実態は謎につつまれている。

香坂、忍熊両皇子の父、足仲彦大王は、本来なら熊襲征伐のため筑紫(福岡県)にいるはずである。
大王には、両皇子の義母にあたる皇后、息長足姫(おきながたらしひめ=神功皇后)が同行していた。
しかし、息長足姫は、大王の方針に従わず、自ら受けたという神託に従って半島への侵攻を敢行した。
記紀に言う『三韓征伐』である。

足仲彦大王は、その遠征の直前に謎の死を遂げる。
半島への侵攻に反対した大王を排除しようとした、息長足姫と臣下の武内宿禰(たけのうちのすくね)による謀殺が疑われている。

また、息長足姫は遠征の直前に皇子を身ごもっていた。この皇子の父親も大王ではない可能性が大きい。
半島遠征の期間、足仲彦大王の崩御は、世間にも、大和の両皇子にも伏せられた。

日本書紀、古事記に記録された、息長足姫すなわち神功皇后による『三韓征伐』。
しかし実態は和平交渉なのか、国家間侵略なのか、単なる海賊行為なのか、はたまた祖国回帰支援などと、様々の解釈があるが、詳細の解説は割愛する。
ともかく、息長足姫は一応の成果を収めて筑紫に帰還した。
そこで誉田別皇子(ほむたわけ=後の応神天皇)を出産し、皇太子に立てる。

「この子を皇太子に立て、大和の香坂、忍熊皇子には退いていただきます。誉田別が成人するまでわたくしが摂政に就きます。」

息長足姫の意は決していた。正式な手続きを経ない皇位継承、政権奪取の野望である。

          ***

両皇子に宛てて、息長足姫は大和に書簡を送った。漢文による情報伝達、当時最先端のハイテクを大和の王族はすでに持っていた。

『このたび我々は、新羅 百済、高句麗を平定し筑紫に帰還した。』
『しかし先帝、足仲彦大王さまは熾烈な戦闘に倒れ、ご崩御された。』
『ついては、播磨国明石郡、大王が屯倉を造営され、ゆかりのある淡路を臨む位置に王墓を築造すべし。』
『我々は船団にて後日大和に帰還、途中明石に喪船を着け埋葬の儀をとり行う。』
『なお皇后には皇子、誉田別(ほむたわけ)が誕生した。王族、国民より多くの祝福があらんことを望む。』

これを読んだ香坂皇子は頭をかかえた。有事とはいえ用件すべての連絡が遅延していた。
実の父を亡くした悲しみ、今後予想される喪に関わる多忙、皇位継承の手続き、義母、息長足姫と新王子への対応などなど。
多くの事柄が彼の思考回路を巡り巡って渦巻いた。

「忍熊皇子を呼べ!倉見別はおらぬか?!」

息長足姫の送った書簡、これは皇后が打った第一の策謀である。それを両皇子はいまだ気付いていない。

「これは天下の一大事。兄上さま、我々はどうすればよいのか?。」

呆然とする忍熊を前に香坂は、

「韓国(からくに)を平らげた戦功は、義母上と新皇子に民々が従う材料として余りあるであろう。それに比べ我々は…。」
「義母上は我々を試されているのだ。この試練を乗り越えてこそ大王にふさわしい人材と。」

「兄上、まず、陵(みささぎ)築造のため、急ぎ明石にまいりましょう。」

「それにしても、人が足りぬ。倉見別はどう思う?。」

王族の臣下、倉見別(くらみわけ)は、近江の中央部を拠点とする地方豪族である。その後裔が後の犬上氏となる。『倉見』という姓から、物資補給担当大臣と思われ、本拠地の近江と、それより東の東海地方とのつながりが濃い雰囲気をもつ人物である。

「わたくしの郷里を通じて、東国から人夫をある程度集めることはできましょう。」
「しかし、現地、播磨でも地元衆の手を借りぬと、とても十分な人手とはいえませぬ。」

「大王さま(仲哀天皇)が営まれた屯倉が淡路にある。そこからも応援を請おう。」
「さあ、皆の者、出立の用意をいたすぞ。」

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第二話

短編小説「明石の落日」

  大王の喪船

山陽道を西に向かうと、須磨の先は鉢伏山の北側を通る峠道、『古山陽道』である。
当時、須磨浦から塩屋にかけては、海岸まで断崖が達し、海岸沿いに街道はなかった。
摂津の国はここまで、多井畑の峠(須磨区多井畑)を越えると、そこは播磨の国明石郡である。
峠を降り福田川が流れる名谷を南に行くと、やがて明石海峡と淡路島が目の前に広がる。

香坂の一行が垂水の集落に到着すると、出迎えたのは明石国造(くにのみやつこ)代行の福田宿禰(ふくだのすくね)であった。

「皇子さま、遠い道のりをようこそおいでになりました。此度の大王さまのご崩御、心からお悔やみ申し上げます。」

「福田殿、此度は迷惑をかけるがどうかよろしく頼む。」

「はい、ただご覧のとおりわが国は貧しゅうございます。この狭い谷ですら『福田』と申しておるありさまで。」
「どうか、民々にはお手柔らかにお願い申し上げます。」

香坂は生まれつきの宮廷生活のため、中央の大和と地方とのギャップ、つまり「地域格差」を十分認識していなかった。
それとは裏腹に陵築造のための労働力は順調に集まった。香坂はこれを朝廷への支持と勘違いしていた。
実は、にわかに降って沸いた公共事業に群がる在地土建業者のような手合だった。

明石海峡に臨む海岸線は、多くが段丘となっていて水田耕作には向かない土地柄だった。
しかし、眺望抜群のウォーターフロントであり、陵の建設候補地としてはとても贅沢な立地だった。

          ***

皇后の到着は後わずか、石室は間に合わないので、にわか造りの埋葬場所を丸太の枠組みでこしらえられた。
工事は急ピッチで進行し、盛り土は大方の姿が出来つつあった。
そこへ筑紫より武将の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が一足先に帰還してきた。

五十狭茅宿禰は、その後裔に吉師部となり、主に半島との外交にあたった氏族であるらしい。この当時、五十狭茅姓は敵味方両方に見られる。一説によると、出雲王家の分派とも言われるが、謎の家筋である。当時、五十狭茅一族の代表格である彼は、朝廷の重要な軍事ポストにいる中で、正義感で他の官僚と意見を異にし、皇子側に味方した人物である。

香坂は彼の労をねぎらった。

「五十狭茅宿禰殿、此度の遠征、まことに大儀であった。義母上と皇子は息災であるか?。」

「お言葉、ありがたき幸せ。しかし、香坂皇子さまには立ち入ってお伝えしたいことが…。」
「実は…、息長足姫さまは、この度お生まれになった皇子さまをお世継ぎに立てるおつもりであらせられます。」

香坂は「さもありなん」という面持ちで、五十狭茅宿禰の話を聞いた。

「香坂皇子さまは正当なお世継ぎであらせられます。それにつけ姫さまのご意志は朝廷への反逆に等しい…。」

「五十狭茅宿禰よ、世継ぎのことを考えるのはまだ早い。誉田別皇子は義母上の実の子、義母上のお気持ちはお察しできる。」
「義母上がご帰還になれば、いずれ世継ぎの手続きが行われよう。それまで我々は、まず亡き大王さまを葬るため、陵の築造に勤しまねばならぬ。」

なおも陵の築造工事は続く。大王の亡骸を受け入れるため、石拭きの仕上げも一部で始まった。
淡路島から石を運ぶため、多数の運搬船が、ひっきりなしに海峡を行き来する。
西方の狼煙台から信号が上がった。皇后、息長足姫が船団を率いて帰還、明石に接近した知らせである。

海峡の両岸が視界に入ったころ、息長足姫は造築中の陵と海峡を渡る船々を遠目に見て言った。

「武内よ、あれを見なさい、敵はすでに砦を築き大勢の軍勢で待ち構えている。速水乃門(海峡)は多くの軍船で塞がれておる。」

「彼らはおそらく誉田別皇子さまがお世継ぎになられることを妬んでおりましょう。」

武内宿禰(たけのうちすくね)は、一説によると200年以上生きた人物ということだが、これはおそらく数人の人物を一人にまとめて伝承されたものであろう。ともかく、代々大王につかえた行政のトップである。この任務では、陸海軍大臣も兼任している、第二次大戦中の東條のような存在だ。

「武内宿禰よ、兵士を船底に潜ませ喪船に乗り、まず香坂をおびき寄せるのじゃ。」

息長足姫は、第二の策謀を発動した。

一方、陸上では香坂皇子が喪船を迎えるため、船に乗り込もうとしていた。

「香坂皇子さま、お気を付けあそばせ、武器をお持ちください。護衛の兵士をもう少し…。」

「五十狭茅宿禰よ、案ずるな。義母上さまとは話し合えば解って頂けるであろう。」

香坂は船に乗り込むと、喪船に向かって進みだした。
大王の亡骸を乗せたに装った喪船は、武内宿禰が船首に立って香坂を待った。

「武内宿禰殿、お役目大儀である。遠路ご帰還お疲れであろう。」

「香坂皇子さま、お迎えまことにかたじけのう存じます。」

武内宿禰はすかさず鉾で船板を「トン」とたたいた。
船底より兵士が一斉に飛び出し、香坂の船に飛び移った。

「なにっ?、義母上さまは我らに刃を向けられるというのか?。」

武内の兵士と、香坂のわずかな護衛との間で船上は大混乱となった。
瞬く間に香坂の直衛は鎮圧され、後続の船団からは矢がはなたれ、別の船に乗る香坂の残存兵は撃退された。
香坂皇子は深い傷を負いながら果敢にも応戦したが、敵の振り下ろした刀をかわしたタイミングでバランスを崩し、落水した。

香坂は討ち取られたかに見えたが、その後しばらく行方不明となる。

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第三話

短編小説「明石の落日」

 菟餓野

忍熊皇子と臣下たちは、海岸から一部始終を見届けたが、成すすべはなかった。

「兵を集め態勢を立て直すのだ、早く!。」

いくさがが始まったことに感づいた労務者たちは、いちもくさんに現場を離れようとして、海岸周辺は大混乱となった。
そんな時、垂水北方の高塚山(西区学園都市)の狼煙台から信号が上がった。倉見別が報告した。

「布施畑(西区布施畑)方面から軍勢が接近しているようであります。」

「どこの軍勢か?新たな敵か?。」

「いえ、よくわかりません。『イ・ノ・シ・シ』狼煙台はそう言っておるようです。」

「弟彦王(おとひこおう)の一族でありましょう。彼らは丹波の野蛮な土豪で、猪を捕らえその肉を食らい、猪の毛皮を纏う習慣がございます。」
「鴨あたり(賀毛郡=兵庫県加東市付近)では彼らに手を焼いています。まるで山賊のごとく。」

福田宿禰が忍熊らに諭した。
五十狭茅宿禰、倉見別はあきらめの表情を隠せなかった。

「まもなく、息長足姫さまの兵が上陸してくるでありましょう。新たな軍勢と合流すれば、敵は強大な兵力になります。」
「我々の主任務は陵の築造、ここには武器が十分にありません。ひとまず住吉(神戸市灘区)の屯倉(みやけ=朝廷の倉庫)まで引きましょう。」

「やむをえないな。しかし兄上はほんとうに倒れられたのであろうか?」

「忍熊皇子さま、兄上、香坂皇子さまはご存命であることを願い、私どもが捜索いたします。」
「弟彦王の一族がこの集落に達したら、忍熊皇子さまが東へお向かいになる間、適当な用件を作って足止めをいたしておきます。」

福田宿禰の提案は、忍熊たちには心強かった。
武将直轄の兵士、兵士でないもの、かき集められるだけの人員を集めて忍熊皇子たちは急遽、明石を離れた。

それからしばらくして、弟彦王の軍勢が明石に到達した。間一髪で忍熊らは脱出に成功した。
弟彦王は、事前に息長足姫から援軍の要請があり、明石で合流する予定になっていた。

「弟彦王さま、ようこそおいでを…、」

福田宿禰は、敵対心がないことを示そうとしていたが顔はこわばっていた。

「おお、ここの長(おさ)か?、ちょっとじゃまするぞ。大和の姫さんはまだか?もう日が暮れる、メシでも食わせろ。」

「はい、息長足姫さまはあそこ、船の上でございます。」
「お食事は炊守(かしきもり)がご用意いたします。今晩お休みでしたら、五色山の陵と高丸の砦をお使いください。」

「それにしても大和のバカ息子たちは逃げ足が速いのう。福田よ、おまえ後で姫さんからお咎めがあるぞ、ハッハッハッ。」

いくら待てども息長足姫の船団は、上陸してこなかった。
弟彦王は足止めを食って、その日の晩は垂水で待機せざるを得なかった。夜半に姫の船団は東へ向かった知らせが入る。

          ***   

一方、海峡上の息長足姫の船団は、海流の変化に翻弄されていた。地元の漁師が言う『イアイニチ』である。
海峡中央に近づくにしたがって船足の逆、西流が激しくなり、大きな三角波が船を襲う。船は思うように進むことは出来ない。
息長足姫は神託を請うた。なにやら神がかった様子で姫は臣下に指示を下した。

「もうすぐ波はおさまるでしょう。そののち真っ直ぐ武庫(西宮市)の水門(みなと)へ向かうのじゃ。神はそう申されておる。」

陸上では弟彦王の軍勢が待機しているが、合流することは断念された。
西流がおさまり海流は反転、東流に乗って無事海峡を通過、その日は暮れた。

岩屋(淡路市岩屋)で一夜を過ごし、船団は一路、武庫をめざし進んだ。
武庫に近づいたとき、息長足姫は武内宿禰を呼び新たな指示を与えた。

「武内よ、そなたはこの子、誉田別を守って紀伊の国まで送り届けるのじゃ。」
「これからいくさはより激しゅうなるであろう。いくさ場にこの子を連れるのはいかにも心許ない。」

「さすれば息長足姫さま、いくさ場は我々におまかせいただき、姫さまが皇子さまとともに、紀伊へ向かわれては?」

「いえ、これは神託じゃ。陸に上がったら、わたくしには神託に従ってやらねばならぬ仕事がある。どうか誉田別をよろしく頼む。」

武庫に上陸した息長足姫とその軍勢は、別れを惜しむ間もなく紀伊に向かう誉田別と武内宿禰を見送った。

          ***

さらに場面は変わり、命からがら明石を脱出し、住吉の屯倉にたどり着いた忍熊皇子の軍勢である。
すぐ後方から、いつ弟彦王の軍勢が襲ってきてもおかしくない状況に彼らは気を許す暇もない。
弟彦王の軍勢は、夜明けとともに垂水を出立、住吉の西方、菟餓野(灘区都賀川周辺)まで進出してきた。

忍熊皇子の軍勢は、屯倉を陣地に仕立てて弟彦王の軍勢とにらみ合った。
物見からは、息長足姫の船団が東へ向かった報告が入る。どうやら住吉より東に上陸する気配である。

忍熊皇子は、西に弟彦王、東に息長足姫の軍勢に挟まれた。

「東へ、大和の方角に進もう。我々は義母上の軍勢と戦う。」

忍熊皇子は静かに決断した。

「されば、『しんがり』はいかがいたされる?弟彦王の軍勢と相対するのは?」

五十狭茅宿禰は、自分がしんがりを務めようとしていたが、隊列の後から名乗り出たのは下級武将の椚麻呂(くぬぎまろ)だった。

「忍熊皇子さま、わたくしは佐紀の宮で衛兵をいたしておりました椚麻呂と申します。」
「是非、是非わたくしをしんがりに、弟彦王の軍勢を留める盾にお使いください!。」

「よくぞ名乗り出てくれた、礼を言うぞ。これを身に着けていくが良い。」

忍熊は自分が身につけている同じ装束を差し出した。

「椚麻呂よ、これから汝は『香坂皇子』となれ。これを身に着け弟彦王の前に兵士たちを司れ。兵の士気も上がるであろう。」

「ありがたき幸せ、これでわたくしは、あの世に行ってもなんの悔いもございません。」

椚麻呂だけでなく、忍熊の軍勢だれもが死出の旅を覚悟していた。
まもなく忍熊の本隊は、武庫に上陸した息長足姫率いる軍勢に向け出立する。
それに先駆け、ひそかに椚麻呂と少数の兵は、都賀川沿いを山手に向かい斜面に仮の桟敷を仕立てて陣取った。

「弟彦王よ、よく聞け!われこそは先の大王の世継ぎ、香坂皇子なるぞ!。尋常に勝負いたせぃ!!。」

「ようやく出て来おったか、バカ息子が八つ裂きにしてやる。ものども、かかれー!。」

怒涛のごとく猪の大群、いや弟彦王の兵は突撃してきた。
桟敷から矢が放たれ、猪の毛皮を纏った兵士が矢に倒れ徐々に脱落するが、厚い毛皮で致命傷を免れ、すぐに起き上がる。
椚麻呂の兵も一人一人と倒れていくが、思いのほか長い時間を持ちこたえた。

ついに、弟彦王の兵が桟敷の真下まで達し、兵たちは桟敷の土台を掘り起こし始めた。
それは、まさしく地中にいる獲物をあさる猪の姿そのものだった。
桟敷は崩れだし、椚麻呂は地面にたたきつけられた。

兵たちの後方から、赤い毛皮を纏いひときわ大柄な男が現れた。弟彦王である。

「香坂皇子、討ち取ったり!、覚悟!」

勝鬨があがり、身代わり『香坂皇子』、椚麻呂は菟餓野に果てた。

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第四話

短編小説「明石の落日」

 宇治へ

武庫(西宮市)に上陸した息長足姫は、船上で授かった神託に従って神々を祀るため、社を造営するべく計らった。
船団に同乗していた臣下の子女に、戦線が東に移動するのを待って、各地に赴くように命じる。
天照大御神は、山背根子(やましろのねこ)の女、葉山媛が、広田(西宮市広田神社)に、
稚日女尊(わかひるめのみこと)は、海上五十狹茅(うなかみのいさち)が、活田長岐(いくたのながお=中央区生田神社)に、
事代主尊(ことしろぬしのみこと)は、葉山媛の妹の長媛が、長田国(長田区長田神社)に遣わされた。

地方に社殿を造営するということは、現代で言えば、学校や公民館を建設するのと同じで、政権が住民の支持を得る材料に利用された。
箱物行政のはしりである。

          ***

一方、住吉では、椚麻呂が弟彦王と相対している間、忍熊と彼の軍勢は東に向かって進軍を開始した。
武庫に近づいた時、忍熊は義母、息長足姫の軍勢との激突を覚悟していたが、意外にも敵はさらに東に退くように見えた。
武庫には、船から降りた家族、子女が不安げに軍勢を見届けているようだ。
忍熊はこの家族の男たちと刃を交えなければならないことに、とても心苦しさを覚えていた。

政権獲得を確かなものとするには、まず大和の都に帰還することが第一の条件、息長足姫はそう考えていた。
しかし、この先、姫が大和に到達するには淀川を渡らねばならない。
その際、姫の軍勢は忍熊の軍勢に追いつかれることは必至だった。

「武振熊(たけふるくま)よ、弟彦王の軍勢はどうした?加勢には来ぬのか?」

武振熊とは、古代史に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)と記録された古墳時代の武将、和邇氏の祖である。多くのいくさで息長足姫と行動をともにした。武内宿禰とならぶナンバー2だが、武内不在のときはトップの将官である。

「おそらく忍熊との戦闘で消耗しておりましょう。それに彼らは山の衆、平地のいくさには向いておりませぬ。」

実際、椚麻呂との戦闘で結構な損耗をこうむり、弟彦王は一旦、丹波へ帰還していた。
息長足姫軍の将、武振熊は、鳥飼(大阪府摂津市)の渡しで忍熊との対戦を決意した。

息長足姫の軍勢に対し淀川の渡し舟の数は多くはない。
いかに損害を少なく多くの軍勢を川向こうに移動するかが武振熊に課せられた。

はたせるかな、息長足姫と忍熊の軍は、淀川の堤で対峙した。

「弓矢、放てーー。」

一斉に両軍から弓矢の応酬が始まった。
すでに息長足姫は、一足先に渡し舟で対岸まで達していた。
なおも弓矢の応酬は続くが、その向こう側では姫の軍勢はピストン輸送で渡河を続行している。

忍熊の軍は、敵の弓矢隊に斬り込んで大損害を与えるも、対岸から渡し舟の上からも弓矢は飛来する。
淀川の堤は大混戦となり、かなりの兵士を堤に置き去りにして息長足姫の軍勢は渡河に成功した。

姫の軍に渡し舟を処分され、忍熊の軍勢は、川向こうにいる姫の軍を追うことは不可能となった。
息長足姫の軍は手痛い損害をこうむり、忍熊は戦術的に勝利したが、姫側は初期の戦略的な目的を達した。

忍熊の軍勢もかなりの損耗があり、どこかで兵力の回復と補給を行わねばさらなる戦闘には耐えられない。

「敵は、本拠の筒城(京都府京田辺市)に帰り、力を回復いたしましょう。さらには大和へ・・・。」

五十狭茅宿禰は、すでに次なるいくさのなりゆきを予測していた。

「敵が都に上り、即位を宣えば、我々は賊軍に成り下がります。その前に叩かねば。」

「五十狭茅宿禰よ、あわてるな。敵を追い、山城から歌姫街道(京都府道22号線)を上ることは、火の中に飛び込むに等しい。」

「近江のわたくしの郷里より、もう少し援軍を呼ぶことはできます。」
「このまま淀川の堤を北に進めば、菟道(うじ=京都府宇治市)あたりで落ち合うことができましょう。」

忍熊は倉見別の提案を採用することにした。

「よし、最後の決戦は、菟道だ。」

菟道に到達した忍熊は、仮の宮を造営し、忍熊が新帝に就くことを宣言した。
諸国に向け、忍熊の新王朝を支持するよう、また、息長足姫の立てた政権は反動勢力であることを訴えたが、思わしい反応は返ってこなかった。
諸国の人々は、事の成り行きを見守っているようだ。いよいよ決着をつけないと事は収まらない気配が濃厚となった。

          ***     

山城国筒城郡(つづきのこおり)は息長氏の本拠地である。淀川を渡り筒城に脱出した息長足姫は、兵士たちにしばし休息の時間を与えた。

さらに息長足姫は紀伊国に赴き、誉田別と武内宿禰に再会する。
誉田別皇子は初めて大和の地に入り、息長足姫は摂政に即位する。

かつて香坂がいた佐紀の宮は、王族、臣官などもぬけの殻で、首都機能がストップしていた。
都の機能を回復するため、息長足姫と誉田別の前途は多難のようだった。

皇子と姫は佐紀の宮に残り、菟道に布陣した忍熊に対抗するため、武内宿禰を派遣した。
筑紫より帰還したときを上回る兵力を編成し、武内宿禰と武振熊二名の武将が、それぞれの軍と姫の直轄軍の三つを指揮する。

筒城の駐屯地を発した武内の軍勢は、ただちに忍熊側に察知された。
宇治川の背後、大吉山の物見からは、武内の大軍が移動するのが手に取るように見えた。

両軍が川をはさんで布陣し、決戦の火蓋は切って落とされた。

弓矢の応酬に始まり、武内側は、対岸に突撃するタイミングを計っていた。
そこへ忍熊側からひとりの武士がしゃしゃり出る。熊之凝(くまのこり)だった。
彼は声高らかに兵士たちに檄(げき)を飛ばし、敵軍を扇動した。
川の水量は少ない。武内の兵は、堤を降り忍熊側に突撃してきた。

「今だーっ!」火矢が上がった。

天ヶ瀬に築いた堰が解かれ、溜まった水を一気に放流、濁流となって武内の兵を襲う。
突撃した兵の多くは流され、武内の軍は大きな損害をこうむり、戦闘は膠着した。

これではいつまでたっても敵を打ち破ることはできないと悟った武内宿禰は、三軍すべての兵に号令した。
「髪を結い上げ、ひかえの弓づるを髪に隠し、木刀を帯刀せよ。」

武内宿禰は、あらかじめ息長足姫に仕込まれた第三の策謀を発動した。対岸の忍熊皇子に対して叫びかけた。

「忍熊皇子さま、私は天下を欲しがらず、ただただ幼い皇子を抱いてあなたにお従いするのみです。」
「どうして戦う事がありましょうか。どうか共に弓を絶って武器を捨て和睦いたしましょう。」
「忍熊皇子さまは皇位につき、安らかに政治をなされることを望んでおります。」

武内は全軍に、弓の弦を切り、木刀を外して川に投げ入れるよう命じた。

忍熊は、その言葉を信じて停戦に応じた。
「武内殿、相わかった、こちらも武装を解こう。皆、武器を川に投げ入れよ。」

忍熊側が武器を棄てるのを見届けた後、武内宿禰は再び全軍に命じ、控えの弦を取り出して張り、背中に隠した真刀を抜いて突撃した。

忍熊皇子は欺かれた。

「図られた、すでに控えの武器はない・・・。」
「武内宿禰よ!そのようなあざとい手段で天下を盗るなど、末々後の世まで祟あるぞ!!。」

忍熊は兵とともに近江方向に逃走したが、山城と近江の国境、逢坂(おうさか)で追いつかれた。
狭狭波の来林(ささなみのくるす,大津市)に至って、武内側の一方的な惨殺戦を呈し、忍熊軍は壊滅した。

忍熊皇子はさらに逃走したが、その先は行き止まり、琵琶湖の岸であった。

「いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内朝臣が頭槌(くぶつち)の 痛手追はずは 鳰鳥(におどり)の潜せな」

五十狭茅宿禰に、『武内宿禰の手痛い攻撃を受けるまえに鳰鳥のように水に潜ろう』と、のたまった忍熊の詩だが、入水して死亡したかどうかは定かでない。

武内宿禰は、忍熊を本当に倒したのかどうか、もうひとつ確信はなかった。
しかし翌日、下流の宇治川で忍熊皇子らしき遺体が発見され、武内は息長足姫に忍熊皇子討伐を報告した。

ここに正当な皇位継承者、香坂皇子、忍熊皇子の兄弟は、息長足姫とその臣下により排除された。

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第五話

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短編小説「明石の落日」

 奇跡の生存

いくさの火蓋が切って落とされた直後(第二話)、武内宿禰(たけのうちのすくね)の軍勢に圧され、迎えの船から落水した香坂皇子(かごさかのみこ)は、その後、明石の沖を漂い、生死の境を彷徨った。

半日も経ったであろうか。その日の夕暮れ、香坂皇子の傷ついた体は舞子の浜にうちあげられた。
意識が戻らないうちに香坂皇子の体は救い上げられ、現在は歌敷山(垂水区)と呼ばれる高台にある一軒のあばら屋に運び込まれた。
香坂皇子を救ったのは明石炊守(あかしのかしきもり)、国造(くにのみやつこ)代行の福田宿禰(ふくだのすくね)の臣下であった。

「お目覚めになられましたか?」

「ここは?・・・・・・」

「わたくしは明石炊守、香坂皇子さま、忍熊皇子(おしくまのみこ)さま配下の皆様にお仕出しする飯場を司っておりました。」

「おお、そうであったか、大儀である。我は香坂皇子であるぞ。」

「ははーっ、やはりそうでございましたか。お持ちの立派なお刀とお身なりで、さぞご身分の高い方とお察しいたしておりました。福田宿禰さまよりご丁重に看病するよう仰せつかっております。」

「で、いくさはどうなった?忍熊皇子は?」

「皇子さま、急に動かれるとお体にさわります。まず何か口にされたほうが・・・、ここには食べ物は豊富にございます。」
香坂皇子は今、自分の周辺が敵か味方なのかの判断もつかなかったが、傷ついた体のため、なすすべはなかった。

「わたくしにはわかりません。ただ、この周りは弟彦王(おとひこおう)さまの軍勢がひしめいています。ここをお出になることは危険です。」

「弟彦王?義母上(神功皇后)に加勢した軍勢か?」

「はい、兵士はみな猪の毛皮をまとっております。将とおぼしき大男は赤い毛皮を。」
「武装した軍勢に、はむかうこともできず、弟彦王さまのお指図で今日から我らはやむなく猪の毛皮をまとった兵士たちに食事と兵糧をお納めいたしております。」

「そうか、やはり我々の軍勢は・・・」

「まもなく福田宿禰さまがここにおいでになるでしょう。なにかわかるかもしれません。それまでゆっくりお体をお安めなさいませ。」

夜もふけた頃、国造とは見ても似つかぬ質素な男があばら屋を訪れた。
「香坂皇子さま、福田宿禰でございます。お体のかげんはいかがでございますか?」

「かたじけない。陵築造の件ではいろいろ世話になった、礼を言う。」
「しかし、我は今、囚われの身となってもおかしくない立場。それを匿うとは?」

「香坂、忍熊の両皇子さまは大和の正当なお世継ぎにあらせられます。」
「それにつけ此度の息長足姫(おきながたらしひめ)さまのお振舞いは、まさに大和への反逆にほかなりません。」
「我らは、多くの軍勢に はむかうことはできませんが、皇子さまがたへの忠義は忘れておりませぬ。」

「重々ね頭がさがる。それはともかく、忍熊皇子とわが軍勢はいかに?」

「忍熊皇子さまは弟彦王の軍勢に押されて東の方に退却なさいました。」

「そうか、住吉には屯倉があるので、そこで軍勢を立て直し補給もできよう。」

「今、ここへ来る道筋を見渡してまいりましたが、高丸の砦から、五色山で築造中の陵(みささぎ)も砦と化し、弟彦王の軍勢であふれております。」

「義母上の軍勢はいずこに?」

「いまだ明石速水乃門(海峡)を大勢の船団で漂っておられます。」

「おお、こうはしておれぬ!、一刻も早く皆を追わねば・・・。」

「皇子さま、なりませぬ!そのお体で外に出られることは・・・・・。」
「弟彦王の軍勢は、明朝、東の方へ向かって出立するはずです。今はここで静観されることが賢策でございます。」

「しかし・・・、う、うっ」
香坂皇子は負った傷の深さを遅くも悟り、起き上がることはかなわなかった。

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第六話

短編小説「明石の落日」

 垂耳王

香坂皇子の傷が完全に癒えるのには数ヶ月を要した。
この間、息長足姫(神功皇后)の軍は勝利し、生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)とともに大和に凱旋した。

船上での戦闘で振り降ろされた刀が顔面をかすり、香坂皇子の片方の耳たぶは半分切れ垂れ下がっていた。
かつての香坂皇子の顔を知るものは周囲に多くいない。しかも、ごく側近の者でないかぎり、この人物が香坂皇子と認識できないくらい容貌は変わっていた。
福田宿禰が何かを伝えに来た。

「皇子さま!忍熊皇子さまがご存命のようですぞ!」

「何とな?菟道(宇治)川で戦死したのではなかったのか?」

「高志国(越前=福井県)へ参った行商のものが、かつて明石で皆を率いている忍熊皇子さまのお顔を覚えておりました。かの地で賊徒討伐に手柄を立てている、とのことであります。」

福井県丹生郡越前町の劔神社の社伝には、敗戦より逃れた忍熊皇子が、この地域に至って賊徒を平定したことから,配祀されたと伝えられている。

「おお、我もかの地へ出向いてみたいものよのう。使いの者は出せるか?」

「否、忍熊皇子さまも、かの地ではご身分を隠してお過ごしのようです。」

「そうよの、なんともどかしい。」

「お心、お察し申し上げます。」
「ところで皇子さま、いつか申し上げようとは思っておりましたが、たってのお願いを聞いてはいただけませぬか?」

「たってのお願い?」

「われらの『大王(おおきみ)』に立ってはいただけませぬか」

「大王?」

「そもそもわれらの長(おさ)は、倭磐余彦大王(やまといわれひこ=神武天皇)さまが大和に上られる際、水先案内をされた椎根津彦尊(しいねつひこ)さまにはじまり、今をときめく葛城の祖、垂水宿禰尊(たるみのすくね)さまのお血筋をひく王家が明石国造を仰せつかっておりました。」
「しかし、垂水宿禰王さまより五代が過ぎ、大和との血縁は薄くなり、今はお世継ぎがおらず国造は空位となっております。」
「その後、わたくし福田宿禰が国をまとめる役をお代わりいたしておりますが、うまく国が纏まらず、そこへもってきて此度のいくさでございます。」

「いくさを起こしてしまったおかげで、播磨の民は疲弊し迷惑をかけてしまった。」

「いくさが終わり、皆の者は以前のように海のものを採り、山のものを国の外に商いに戻ることができました。」

香坂皇子は、この豊かな播磨が受けた受難にようやく気づき始めていた。
「明石の西には真珠を産する一族がおったであろう?佐紀の都にも多く届いておったぞ。」

「はい、玉津の一族が明石川の入江で採れた真珠をあちこちに出荷しておりました。」
「しかし、かつては大和の大王さまがご遠征などの際このあたりを通られる時、真珠だけでなくアワビや絹など高価な産物を多く召し上げて行かれるため、そのたびに我々は苦しんでおりました。」

「おお、なんと・・・・・」
香坂皇子は、かつては自らも搾取の一翼にいたことに心苦しさを感じ、とまどった。

「我らは戦乱の無い播磨を望んでおります。そのためには国を纏める王が必要なのです。」
「皇子さまは垂水宿禰尊さまのはるか上を辿るお血筋であらせられます。王に立っていただけるのであらば、国中が王を慕い纏まりましょう。」

「しかし我は、大和の朝廷からすれば、今は謀反人。」

「皇子さまのご身分は決して国外に口外いたしません。皇子さまはただ『播磨の王』として君臨していただければ・・・」

「うむ、どこまで隠しとおせるか我も自信はないが・・・、すでに我は大和に帰れぬ身、播磨が纏まれば、吉備、大和に匹敵する国に発展できるかもしれぬ・・・。」
「皇子とか大王と呼ばれることは差し支える。体を表す名がよかろう。『垂耳(たるみみ)』でどうじゃ?」

「垂耳王?!」

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第七話

短編小説「明石の落日」

 播磨の統一

「皆の者!よく聞け!。このお方はかつて明石を治められた垂水宿禰尊さまの末裔、垂耳王さまなるぞ。」

垂水宿禰は傍系とはいえ、父、仲哀王をさかのぼる6代前の開化王の家系であるから、まんざら間違いでは無い。

「幼少のころ、大和よりこの明石にこられ、ようやくご身分を明かされた。今日よりこの垂耳王さまが我らの大王にあらせられるぞ!」

名谷の東側の高台には、にわか作りの砦が撤去され、新しい宮が建設された。
人々はいつしかこの台地を「王居殿」と呼ぶようになり、その周辺に集落ができた。
海岸や水田より一段高い土地であったため、天然の要害となった。この集落あたりは「城が山」と呼ばれた。
質素ではあるが、明石の都として一応の体裁は整った。

名谷の西側には、今まで通り高丸の砦があり、その脇にはひときわ高い楠の大木がそびえていた。
この大木は、長らく明石のシンボルであり、海峡を行き交う船の道しるべとなっていた。
木の中ほど枝分かれの部分には桟敷が設けられ、物見に供されていた。
ここから四方を眺めると、西は吉備の国を、南は淡路の屯倉から荷を積んだ船々が、東は大和より滝坂の峠(生駒山系)を下りる軍勢が観望できた。

さて、息長足姫(神功皇后)が摂政に就いた大和の都では、度重なるいくさによる疲弊を癒すため、国力の回復に専念していた。
明石で香坂皇子が「垂耳王」として生き延びていることも知られず、播磨が急速な経済復興をなしつつあることも関心を持つことは無かった。

垂耳王は明石国造の名で、多くはないが、定期的に大和の都に向け真珠や絹を貢物として贈った。
佐紀の都で、貢物を受け取った息長足姫は、おおいに喜び浮かれたことは想像に難くない。
これは、播磨が朝廷に対して、敵意のないことをアピールすることだけでなく、朝廷が関心を持つ次なる支配ターゲットを、播磨以外に向ける効果を狙っていた。

垂耳王の名声は、すぐに播磨国内に波及し、西部の針間が、ついで北部の鴨が垂耳王の勢力化に糾合された。

「大和は、諸国に対して多くの貢物を要求して、各国はその対応に苦慮しているようであります。」

垂耳王は、権力と軍事力を背景とした、実体のない経済に頼っている大和に、辟易していた。
「大和は諸国から物をあつめ、人を奴婢として連行し、都を造り、陵を築いてきた。今もやりかたは変わらんのう。」

「それにつけ、垂耳王さまが自主的に大和に貢物を納められるため、針間、鴨の負担はずいぶん軽減されたと喜んでおります。」

「ここには豊かな海がある。米だけでなくいろいろな農産物も多く採れる。但馬では鉄もできる。平和な世が続けば民は潤う。」

それ以外に、明石を通る街道と海峡を行き来する商船からは通行税も徴収していた。
しかし朝廷の船からは金品を取ることはなかった。
彼らと良好なコミュニケーションをとることで、情報収集し大和の様子が手によるように把握できた。

経済力の発展にともなって、しだいに播磨は大和と対等の政治力、外交力をも備えるに至った。
大和の息長足姫は、そのことを快く思わなかったが、軍事的に圧力を加えることは、周辺諸国や民衆のイメージを損なうばかりか、重要な補給源をも断たれることにつながるので、彼らにそれを思いとどまらせた。
西では吉備国が発展しつつあり、播磨は畿内との緩衝地帯として無言のうちにプレゼンスを醸していた。

明石にそびえる大楠は、視覚的なシンボルとしてだけでなく、後に播磨風土記、速鳥の逸話にあるように、
 『朝日には淡路を、夕には大和島根を陰とした』
と、明石の王権が、政治的に国外にまで影響力を及ぼしていたことを比喩させる材料にもなった。

時は過ぎ、垂耳王が即位して二十年あまりが経とうとしていた。

儀母、息長足姫(神功皇后)は崩御し、摂政時代は終わりを告げた。
いよいよ誉田別大王(応神天皇)の時代が到来した。

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第八話

短編小説「明石の落日」

 誉田別大王

誉田別(ほむたわけ=応神天皇)が皇子のころより、播磨は、誉田別のテリトリーである摂津、河内とは重要なビジネスパートナーであった。
播磨とは、持ちつ持たれつの関係が成立していたので、お互いに相手を尊重しあっていた。

ただし誉田別には、播磨の垂耳王が、かつて母と争ったこと、義兄であることを認識する材料はなかった。
垂耳王は、自ら表舞台に出てこようとはしなかったので、誉田別とは実際に顔を合わせたことがなかった。

朝廷の軍勢が西方へ遠征するときも、なんのトラブルもなく領地を通過し、こころよく供出に応じるこの国の王は、どのような生い立ち、成り立ちなのだろう?。播磨王家の振舞いは、大和王家のそれに通じる他の地方王家とは違う垢抜けた面をも醸していた。
誉田別は、垂耳王の器の大きさに感心するとともに、何某か彼と共通した生い立ちをイメージするようになった。

誉田別はたびたび淡路島に狩に出かけていた。
ある日、誉田別は狩の帰りに、ふとしたことから密かに垂水、王居殿の宮に立ち寄った。

「垂耳王さま!お客様でございます。狩からお帰りの「品太」さまと申しておられます。大和の宮中のお方かも。」

垂水宿禰の耳には「ひんだ」と聞こえたが、垂耳王はすぐさま客の素性をさとった。

「座敷の上の手にお通しせよ!くれぐれも丁重に。」

「かしこまりました。」

王居殿の座敷は、上の座からは明石海峡が眺望でき、淡路の島影が雄大に広がっていた。

「垂耳王さま、初めてお目にかかります。しかし我の座はいささか高こうございます。」

「こちらこそ初めてお目にかかります。遠い道のりをようこそ、このような質素な宮においでいただき、かたじけのう存じます。」
「おいでになった知らせに、すぐさまお客様が大王(おおきみ)さまであろうとお察しいたしておりました。」

「おお、いかにも我は誉田別ではありますが何分即位間もない若輩、あなたさまは一国の王、垂耳王殿であらせられる。」

垂耳王は、なおも下の座でひれふしたまま、

「此度の摂政母君さまのご崩御、心からお悔やみ申し上げます。また誉田別大王さまのご即位を謹んでご祝福いたします。」

「おことば恐縮にございます、どうか面をお上げくださいませ。」
「それはそうと、垂耳王殿、あなたさまは、かつて大和の宮中におられた方ではございませんか?」

「・・・・・・」
垂耳王は返す言葉がなかった。

「摂政母君より昔話を聞かされ、わたくしが生誕したころ、賊徒との戦いで我々を守るため、多くの皇人がここ明石で命を落とされたとか。」

垂耳王は事実との相違に唖然としたが、表情に出すことをかろうじてこらえた。

「義兄の香坂皇子さま、忍熊皇子さま・・・・・。」
「忍熊皇子さまは、その後ご存命であることがわかり、都へお戻りになるようお勧めしましたが、お断りになられました。」
「わたしには、香坂皇子さまが、かくもあっけなく果てられたことが、にわかには信じがたいことでした。」

「で、大王さまは、香坂皇子さまがもしやご存命とお思いと?」

「いかにも・・・・」 「お歳や即位された時期など状況はそろっております・・・・香坂皇子さま?」

「おお、もしそれが事実であるとすならば、香坂は大和を棄てた身の上。裏切り者に等しい輩。」

「めっそうもございません。正当な皇位継承者さまに都にお帰りいただき、帝位にお就きいただきたい、もしあなたさまが香坂皇子さまならば。」

しばらく会話が続き、誉田別を信用できる相手と見極めたため、垂耳王は直って口上を述べ始めた。

「おそれながら申し上げます。天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れられることは地の如くでなければなりません。」
「上に民を喜ぶ心があって国民と接すれば、国民は毅然として天下は安らかでありましょう。」
「わたくしは辺境、播磨一国の王、東国西国を纏める国家に仕える事は重大なことでございます。わたくしは不肖にてとてもかないませぬ。」
「先の摂政君は、前もって神のおぼしめされた人を選び、誉田別さまを皇太子として立てられました。大王にさいわいあらしめ、万民をお授けになられました。」
「どうか母君、息長足姫尊さまのご擁立を疑われず、帝位をお続け下さいませ。わたくしは大和の後ろ盾として播磨の地でお助けするばかりでございます。」

事実上、垂耳王は香坂であることを認めた。
誉田別は垂耳王の格調高い口上がどこから来るのか虚ろだったが、さらに返した。

「垂耳王さま、いや香坂皇子さま、お話はとくと拝聴いたしました、が、わたくしがこのまま大和に戻れば、わたくしの義が立ちませぬ。」

「それでは誉田別大王さま、その代わりといっては僭越なのですが、たってのお願いがございます。」

「お願い?・・・・・」

「わたくしの末子に『稚郎子(わきいらつこ)』という男子がおります。まだ幼い子なのですが、すでに韓国(からくに)伝来の書物に興味を示しております。」

「人質を・・・、ということでしょうか?」

「いえ、この子を大和の地に向かわせ、良き師をお与えになっていただきたい、というお願いにございます。」
「この子が勉学にはげみ、文物、典籍に通達すれば、必ずや大和の政治にお役に立てる人材に育つと信じて疑いません。」

「よろしいのでしょうか?垂耳王さまのお世継ぎでございましょう?、そのかわり大和は播磨のためになにをすればよいのか?・・・。」

「代償など求めてはおりませぬ。幾年も平和な世が続くために、大和と播磨の掛け橋となるならば、この子が。」
「今ひとつ、わたくしが香坂であることは、世間にはお伏せいただきたい、誉田別大王さまのお心に留めていただきとう存じます。」

「おそれいりましてございます。」

その夜は誉田別大王をまねいて、盛大な宴が催された。

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第九話

短編小説「明石の落日」

 再び弟彦王

数か月後、稚郎子(わきいらつこ)を迎えに大勢の使節が播磨を訪れた。
使節の代表は、「阿直岐(あちき)」。百済から倭に漢学をもたらした渡来人である。

稚郎子には、阿直岐のもたらした文物は、将来への希望に満々ていた。
しかしそれは父、垂耳王との懇情の別れを意味していた。

「父上さま、稚は必ずや立派に成就して宗廟社稷(くにいえ)にお仕えいたします。」

小学生ぐらいの子供が「宗廟社稷」という言葉を使うのはいかにもでき過ぎている。
かくして稚郎子は大和へ旅立った。

          ***

そしてまた数年が経った。

稚郎子の天才ぶりは都中の評判となった。
同時に、父、播磨の垂耳王の存在がにわかにクローズアップされるにおよび、彼の成り立ちに人々は興味をしめした。
いつしか都の人々の間では、かつての香坂皇子の記憶をよびおこし、垂耳王の存在とオーバーラップさせるようになった。

その噂にただならぬ反応を示した人物がいた。弟彦王(おとひこおう)である。

香坂皇子は、今を去る三十数年前、弟彦王により菟餓野(神戸市灘区)で討ち取られたはずである。
播磨が平定されたことで、丹波の足元を押さえられた弟彦王一族は、勢力範囲を広げることはできず、かねてより播磨は足かせとなっていた。加えてその香坂皇子が、よりによって播磨で生き延びているということは、弟彦王のプライドを許すことではなかった。

弟彦王は播磨に密偵をはなち情勢をうかがった。

「弟彦王さま!密偵が戻ってまいりました!、垂耳王は香坂皇子に違いありません。」

「やはりそうか。えりぬきの兵士を百名ばかり集めい。能勢に集結させ出陣を待て。」

「ははーっ!」

播磨の垂耳王、すなわち香坂皇子を討つ。弟彦王の心に迷いはなかった。

この当時、弟彦王のテリトリーである丹波とその周辺において、能勢はその南端に位置していた。
能勢からは、すぐ西隣の美嚢郡(兵庫県三田市)を経て、明石までは一日足らずの行軍である。
正規の軍事行動ではないので、事は隠密裏かつ迅速に遂行せねばならない。

「密偵によりますと、垂耳王は、毎月決まった日に、少数の従者を連れ、狩に出かけるようであります。次のその日は明後日。」

「よし、出立は明日夕刻じゃ!。各自、猪の毛皮を整え出陣に備えい。」
「いまこそ菟餓野で討ちもらした香坂の首を取り、誉田別大王さまに播磨の国をささげるのじゃ!!。」

弟彦王は、誉田別と息長足姫が大和へ上るとき加勢し、忍熊皇子らを追撃して軍功を得たが、もともと誉田別の掌握下ではなかった。
誉田別はもとより、畿内の人々にも悟られることなく、矢は放たれた。

能勢を発った弟彦王と猪の毛皮をまとった兵士たちは、夜陰に乗じ一路、裏六甲の谷を行軍し、夜半には有馬に、未明には布施畑(神戸市西区)に達した。

          ***

その朝、垂耳王は数人の若い従者を率い、狩口(垂水区狩口台)まで出た。

「本日は、これからの播磨を占う誓狩(うけいがり)である。良い獲物が捕れれば播磨はいっそう豊かになるであろう。」

「王さま、はるか向こうに猪が一頭たむろしています。」

「おお、すでによい兆しが現れたか。」

その猪は弟彦王の先鋒、索敵役の兵士であった。すぐさま、目標、垂耳王に接触した報が弟彦王にもたらされた。
弟彦王は奇襲に成功した。

「かかれぇーーー!!」

林の陰から百あまりの兵士が一斉に飛び出し、垂耳王を襲うべく走り出した。

「王さま!猪の大群です!!。」

「なにぃっ?・・・・・あれは猪ではない、軍勢。」    「是非におよばず。」
「皆!、王居殿の宮に引くのだ!速やかに。」

「はいっ!」

弟彦王の兵とは、わずかな距離を隔てて、垂耳王は従者とともに東に走った。
歌敷山を過ぎ、高丸の斜面、大楠のたもとに到達したとき、垂耳王は従者に指図した。

「やつらの目当ては我一人。」「汝らは急ぎ王居殿の宮にもどり、迎えの兵を立てよ!。」

「垂耳王さま!王さまはどうされるのですか?!。」

「我はこの大楠の桟敷に上る。我が上ったら、はしごをはずせ。」

「お一人で残られるのですか?。」

「ここに達した敵は、我を討ち取るため、この大楠を切り倒すであろう。それまで時を稼ぐ。」

「それは・・・、それはあまりにも惨うございます、王さまを犠牲にするなどと。」

「はよう行け!!、軍勢はすぐそこであるぞ!」
「この大楠は明石を守る大事な徴(しるし)、そう易々と倒されるものではない。万一この大楠とともに我も倒れるなら、それも本望。」
「我が倒れた後は菟道の稚郎子(うじのわきいらつこ)をたよるがよい。」

弟彦王の兵たちは、従者を排除し大楠の根元を掘り起こし始めた。

「皆に伝えよ!、もしこの大楠が倒されたならば、それを船に造り、我の魂を納めよ!。」
「一楫(かじ)に七浪を越え、速きこととぶ鳥のごとく海を駆け、播磨の幸を西に東に送りとどけるのじゃ!!!。」

「垂耳王さまー!王さまぁーーー!!!。」

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第十話

短編小説「明石の落日」

落日、後日談

大楠は音をたてて傾き始めた。轟音とともに土煙が立ち昇り、垂耳王は地面にたたきつけられた。
すぐさま弟彦王の兵は、垂耳王に斬りかかり瞬く間に体を八つ裂きにした。

ようやく王居殿の宮から迎撃の兵がたどり着いた時、すでに遅く、弟彦王の兵たちは勝鬨をあげていた。
播磨の兵は、敵の軍勢に斬り込んだが、敵は反撃せず速やかに戦場を離脱した。

明石の巨星は落ちた。
倒れた大楠の周囲で、王居殿の宮で、垂水の集落で、兵士、宮人、民々たちは呆然とした。

            ***

垂耳王が討たれた報が大和にもたらされると、誉田別大王(応神天皇)は激怒した。

「皆のもの!出陣じゃ!!、丹波の弟彦王を討つ!。」

「大王さま、しばしお待ちください。」

若きエリート軍師、養子の稚郎子(わきいらつこ)が大王を諭した。

「おそれながら申し上げます。今、大王さまの軍が丹波をお攻めになられると、畿内は大いくさになります。」

「何だと?、垂耳王は汝の実の父君であるぞ!。父君とは、汝が大和へ入るときの盟約がある。」

「はい、重々承知いたしております。」
「しかし播磨には弟彦王殿勢力下の住民も多数おり、丹波で有事の際はその者たちが呼応しましょう。」
「播磨が分裂し、丹波、摂津、大和をかけたいくさに発展すれば、その隙に西の吉備が播磨を侵そうと覗うでありましょう。」

「父君が討たれたというのに、汝は何ゆえ?・・・・・。」

「大王さまは、広く諸国を纏め、お治めになるお立場、親者の情より『天下の計』を重んじになる、今はその時かと。」

有力武将が集められ、軍議の席が設けられた。
弟彦王の行動を軍功と評価して朝臣に迎え、同時に播磨、丹波を直轄領に組み入れる、という案も出たが、さすがにそれは却下された。

「大王さまの軍は、播磨にお入りください。そこで播磨領内にいる弟彦王の手の民々を牽制していただきとうございます。」
「摂津の義兄、大さざき皇子(仁徳天皇)さまの軍は、南から能勢方面を固めていただきます。」
「菟道(うじ)にいるわたくしの軍は息長氏の軍と共同で、丹波、山城の国境、老の坂(京都市西京区)を固めます。」

かつて香坂、忍熊と刃を交え、弟彦王が支援した息長氏と組むというのは、時代の趨勢とはいえ、皮肉なことである。

「丹波の周囲を朝廷軍で取り囲み、弟彦王一族を封じ込めれば、彼らは討って出ることはかなわず、いずれ沈黙いたしましょう。」
「しかる後、大王さまは弟彦王殿に向け、詔(みことのり)を授けられると宜しいかと。」

誉田別大王は播磨に入った。播磨風土記に言う『播磨巡幸』である。
この際、託賀郡(多可郡=兵庫県丹波市)で村長(むらおさ)多数が殺害される、いわゆる『黒川事件』が起こった。弟彦王系住民に対する見せしめである。
『摂政息長足姫様の宿敵、香坂皇子討伐せり』…朝廷には建前上、香坂の記憶はない。弟彦王の嘆願は、もはや無駄の遠吠えとなった。

            ***

詔の一『弟彦王と一族は、吉備国藤原の県(岡山県和気郡)に転封とする。丹波は召し上げ。』

後世の解釈では、軍功により領地を与えられたことになっているが、弟彦王の行動は、自らのみの覇権とみなされ、テロ行為をきびしく譴責されることになった。
しかし過去の軍功による評価が相殺され、生命は安堵された。
藤原の県は、吉備東部の未開の地である。吉備王権の影響力も比較的弱く、朝廷の先鋒、兼防波堤として左遷されたかたちである。
ここで一族は発展し、『和気氏』の祖となった。後にこの一族から和気清麻呂を輩出することになる。

詔の二『許可なく猪を大量に捕獲し軍用に供することを禁ず。かつて捕らえられた猪を供養すべし。』

能勢地方には、応神天皇が詔を発して、猪を供養するため能勢の村々に対し、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じ、『亥の子餅』を朝廷に献上する習慣が興った、という伝承がある。
また、和気氏の氏社である各地の和気神社には、社殿の両サイドに狛犬ならぬ『狛猪』が鎮座している。
和気清麻呂が大隅に左遷される際の逸話にも現れるように、古来より猪は和気氏のシンボルである。

詔の三『明石で築造未完の陵を完成し垂耳王を葬るを許す。こののち播磨は朝廷の直轄領とする。』

五色山の陵(みささぎ)は、工事途中に戦乱が勃発、砦に転用され、その後放置されていた。
完成すれば全長200mを超える壮大な前方後円墳である。現在は垂水区五色山にある埋葬者不明の『五色塚古墳』である。
本来ならば『香坂垂耳尊赤石陵』とでも呼ばれるべきだが、記紀は香坂、忍熊両皇子を謀反人と解釈した。
また、現存する播磨風土記は、赤石郡(明石)の全文が欠損しており、垂耳王の存在は歴史から抹殺された。

明石に残った垂耳の王族は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に播磨帰還を打診したが、稚郎子は動かなかった。
時代は、かつての諸国に豪族王権割拠の時代から、大和による集権国家への変革をなしつつあった。
稚郎子は、その歯車のひとつにすでに組み込まれ、集権システムを構築する立場にいることを当然のように自覚していたが、垂耳王の精神は、ヤマト王権の中で彼に受け継がれた。

畿内とその周辺のあらゆる富を集約した強大なヤマト王権、『河内王権』の幕開けである。

短編小説『明石の落日』おわり

*** この物語はフィクションであり、史実に基づくものではありません。***

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短編小説「明石の落日」紹介

なにを血迷ったのか、小説なるものを書いてみました。

古墳時代を舞台にした歴史小説です。
一応、フィクションではありますが、日本書紀、古事記、風土記をベースにしています。

記紀自体が、史実とは異なる記録という評価が多い中、そこへ独自の解釈を肉付けした内容ですので、ナンセンスと思われる方も多いとは思いますが、それすなわち“フィクション”と考えています。

福田宿禰や椚麻呂など、架空の人物も登場します。しかし、かなりの人名、地名が、記録や実在に則しています。
人名、地名、語句などをネットで検索していただくか、他の文献を参照して追考していただくと、また新しい発見があるかもしれません。

なを、小説の進行は、投稿順とは逆です。

カテゴリー「小説」をクリックしていただいて、ページトップを開くと、上から順に、第一話・・・第十話、全話通して読んでいただけます。

どうぞよろしくお願いいたします。

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         ネット小説ランキング>歴史部門>「明石の落日」に投票

   ***  目次  ***

   第一話   佐紀の宮

   第二話   大王の喪船

   第三話   菟餓野

   第四話   宇治へ

   第五話   奇跡の生存

   第六話   垂耳王

   第七話   播磨の統一

   第八話   誉田別大王

   第九話   再び弟彦王

   第十話   落日、後日談

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ボートでの食事

二見に来た日は、ボートの中で昼食をとることが多いです。

かつては電気ポットでお湯を沸かし、カップめんを作るか、コンビニ弁当程度で済ませていました。
電気ポットのお湯の沸きあがりが遅いので、小型カセットコンロを導入したことは以前お話したとおりです。

Vfsh0028s 今、よくある食事のパターンの一つめは、出かける前に弁当を作ってフネに持ち込むケース。
弁当以外に、スープなどをフネで作って一品増やすなど、バリエーションも楽しめます。

 

Canon_122s

Canon_125s

二つめは、あらかじめおかずだけ作って持ち込み、ごはんをフネで用意するパターン。

 

 

Vfsh0001s

三つめは、フネでパスタなどを調理するパターン。
ソースはレトルトを利用します。

 

現状では、このような簡単な調理で済ませていますが、やろうと思えば、炒飯や丼なども可能ではあります。
しかし、素材あるいは食材をその都度用意して持ち込む段取りは、どのパターンでも同じです。

この程度でも結構なバリエーションを楽しめるので、しばらくはこれらのパターンで続けていくと思います。

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今年の冬は

昨シーズンとはちがって、ボートパークに来た日は、どんよりした雲の低い日が多いようです。
風の強さも影響してか、海況も不安定になりがちで、ちょっと港外に出たものの、揺れとハルの叩きの多さにこりて、たちまちUターン帰港することもしょっちゅうです。

Vfsh0006s こんな日はキャビンの中で過ごすにしても、日差しがないためキャビン内の温度は上がってくれません。
正月4日には、キャビン内で新アンプの基板に部品の実装作業を行ったのですが、寒かったのなんの。
でも、小型カセットコンロを用意していたので、お湯を沸かす時間は大幅に短縮されました。冷蔵庫もあって、キャビンの一角はちょっとしたギャレー風に変貌しています。
この日、これで沸かしたコーヒーとカップ麺は実においしかったです。 

Img_0768s

   
それからしばらくして、とうとうストーブも購入してしまいました。
カセットボンベによるプロパンガス・ストーブです。標準のボンベ一本で連続一時間足らずと、よくガスを食いますが、小型にもかかわらず能力が大きく、十分暖かいです。

三つ目の画像は、件の新アンプ「フシアナサン」の後方。
ひときわ目立つハンドルは、家具用の取っ手です。これでも一個¥100。
Img_0773sアンプをフネに搬入するためには、片手で手提げできる必要があります。ハンドルの取り付け位置をどこにするか考えた結果が、この後方デザインになりました。自称「着艦フック」と呼んでいます。

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淡路夢舞台

昨日(5/3)ようやく同伴者を連れて淡路夢舞台に入園して散策することができました。

交流の翼港からは正面ゲートまで徒歩5分程度と、同園北側に接する駐車場よりも至便な位置関係にあり、到着してからのアクセスは車よりもかえって楽ちんです。しかも神戸淡路鳴門道の通行料も節約できるので少々燃料代が高くついてもフネのほうがやや経済的でもあります。

当日はゴールデンウィークもたけなわの晴天日和とあって、他の観光施設と同様、たくさんの観光客でごったがえしていました。園内は広大な敷地全体に春の花々が咲き誇っていましたが、チューリップなどは暖かさが災いしてか、残念ながらほんの少しくたびれかけの様相でした。

Yumebutai1_1 この施設は、園内に建つ建物の設計が安藤忠雄氏で、広い敷地にゆったりとした面積で安藤ワールドが展開されています。
楕円と鋭角を基調とした造形で、複雑な回廊や多くのスロープ階段によるアップダウンが訪れる者にある種「心構えの姿勢」を要求するような雰囲気を持っています。これが建築物のもつパワーなのか?と良い方向に解釈をすれば、なるほどと納得なのですが、単に便利に使うという意識ならば、「余計なお世話」な建物という見方も無くはありません。

施設の名称もそれぞれ凝ったネーミングで、初めての訪問ではいちいちパンフレットで確認しないと、どの施設がどんな内容の展示、サービスを行っているのか把握しにくかったです。「ウチは力入ってますよー」とアピールしたいのでしょうか?最近の観光施設は、なにをやっているのか端的にわかりにくい名称のところが多いのはどこも同じようです。

Kisekinohosi_1 この植物園「兵庫県立淡路夢舞台温室 奇跡の星植物館」では、常設展示に加えて「イタリアの風」と銘打ったオペラ歌唱が演じられていました。オペラのことは良くわかりませんが、演目はよく耳にする曲が多かったです。ただ、PA装置のミスマッチもあってか残響反響がちょいと不自然な感じではありましたが・・・。

さて、船底掃除の時期がめぐって来ているのにもかかわらず、腰を上げるタイミングを逸していましたが、当日の帰途に隣接の陸揚げマリーナに寄り上架作業の予約をしました。予想どうりGW中はすでに満杯とのことで、かろうじて5月20日に作業ができることになりました。
繋留保管に慣れていると、いざ上架となると段取りが大儀に感じる習慣はなんとか改めねばなりません。

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江井海岸

1月22日、真冬の寂しい淡路市江井の海岸です。

Eikaigans_3 ここは約35年前、私が中学一年生だったころ海水浴に訪れた地です。その後、近所を通過することはありましたが、この地を訪れるのはそれ以来、久しぶりとなります。今回は二見からボートで片道30分あまりのクルージングで着きました。

35年前は、明石から1時間近く小型客船にゆられて、江井の北、室津あたりで船を降り、そこからさらにバスで数十分かけてここにたどり着く、といった行程だったとおもいます。
海岸には、家族連れとおぼしき海水浴客が多く、大部分はマイカーでここを訪れているようでした。

マイカーを使えるだけでも当時はうらやましかったのに、今でいうならばシーレイ245クラスのオープンブリッジクルーザーを乗り付け、錨泊させているグループも少数いました。その人たちは、直径3mはあろうかとおもわれる大型のビーチパラソルやボンボンベッドなども上陸させて、我々の目からはすべてがアメリカンに映りました。
我々はというと、画像右方向の高台の空き地にテントを張り、カレーや味噌汁を炊いて二泊三日ぐらいの滞在でした。時期はお盆休みの8月15日から17日だったことが、今回資料を調べて確認できました。

その日、甲子園では森本監督率いる地元、郡山高校が、強豪 銚子商業を奇跡的な逆転サヨナラで準々決勝を破り、同行していた郡山高出身の親戚は歓喜にわいていました。その直後のニュースでラジオはただならぬ内容を伝えたのでした。「アメリカのニクソン大統領は、明日きわめて重大な声明を発表する、と伝えました。」
この声明が、いわゆる「ニクソンショック」といわれた社会現象の発端となったのです。

大国の影響力を発動して、それまで1ドル360円の固定相場だった為替レートが308円に、2年後には変動相場制に移行する足がかりとなったのでした。
当時中学生だった私は、この出来事で、それまでは高価だった輸入品は安く買えるようになるけれど、輸出品は売りにくくなる、といった程度のことは理解できましたが、ことさら世間が大騒ぎしている深い意味まではわからず不思議な感じをいだいていました。

さて、日本が高度経済成長の頂点に達したその1971年、そのころ、液晶表示器、マイクロプロセッサ、デジタル伝送など、現代のエレクトロニクスの根幹をなす技術が開発現場で産声をあげていました。一般家庭では自動車や家電製品の普及が一巡し、車にはオートマチックトランスミッションやエアコンなどの快適装備が、オーディオは、それまで一部のマニアしか手を出さなかった高価な単品コンポなどが、ごく普通の庶民にまで行き渡る兆しが見えていました。量産効果で、一個100円ぐらいしていたトランジスタが、20~30円で買えるようになったのもこのころです。
当初懸念された円高ドル安はむしろプラスに働いて、日本経済は途中オイルショックやバブル経済など、いくつかのつまずきはあったけれど、はたまた高度成長から安定成長などと呼びかたは変わったけれど、技術革新にも支えられつつ、つねに拡大は続けました。

話は1971年に戻って、江井海岸にクルーザーで海水浴に訪れた一行は、当時、周囲からは羨望の反面、どちらかというと批判的なまなざしで捉えられているようでした。わざわざ360円/$レートで換算された高価な輸入艇を手に入れられる裕福さもさることながら、公共交通機関や国産車で移動には事欠かないのに、その必然性すら疑問をいだいていました。

私はというと、その10年後にはマイカーを持ち、そのまた10年余り後には輸入車に乗っていました。その翌年には明石海峡大橋を渡って、ここ江井海岸にたどり着くこともできたでしょう。そしてこの日、私はマイボートに乗ってここを訪れることができました。
もはや、輸入車やマイボートなどは、多少の資金繰りの工夫で多くの人が実現することができます。あとは必然性がいかほどか?ぐらいが所有するかどうかの分かれ目のような気がします。

経済成長と並行して、自分自身の物質生活もそれなりに変化することができたのは、一応幸運だったとは言えるのですが、35年前のクルーザー一行と今の私とでは、何が違うのか?……

「ボートに乗って(例えば上に書いた長文のようなことを)考える機会を持てたこと」

ボートを持って得られた最大の収穫がこれだと思っています。それを35年前の私にはわからなかっただけなのかもしれません。

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新年

あけまして おめでとうございます。

皆さま方におかれましては、よき年でありますようお祈りいたします。

昨年は、わたしにとって記念すべきボート元年となりました。
今年も、安全には気をつけてボートライフに邁進してゆきたいとおもいます。

また、最近滞っているオーディオ機器の自作も、再び軌道にのせたくおもっています。
まずは、昨年から計画していて、すでにパーツも調達済みの、用途を限定した超駄球アンプ(意味不明)の製作に着手したいとおもいます。いずれブログ上でも経過を報告できる時期が来るとおもいます。

Iesimap 正月三ヶ日のうち3日はボートの初乗りに当てました。
画像は家島本島の港で、ここは土砂運搬の海運業の本拠地となっています。普段は、あちこち航行している運搬船が休み期間中は港内にぎっしり係留停泊しています。

Osimaもうひとつの画像は男鹿島北東に位置する大島。大島という割りには小さい島です。波の浸食で大胆に岩肌が削られているのが印象的です。今年の夏には海水浴に訪れたい候補地のひとつです。

今日4日は寝正月を決め込みました。
Vfnyc NHKのBS-hiでウィーンフィル,ニューイヤーコンサートの再放送があったので、なんとなく流しながらゴロゴロと。2日の夜に録画したアース・ウインド&ファイヤーとシカゴのコラボライブもゆっくり見ることができました。どちらも特にすばらしい音質というわけではありませんでしたが、ハイビジョンとデジタル音声のおかげで、一昔とは比べものにならないクオリティーで視聴できるようになったものです。画像の装置で画と音のスケールバランスは、いたって妥当で、案外、小さい物音とか余韻、残響なども雰囲気よく再現してくれます。

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山の話題

ChyusyajyoSantyouこの秋の行楽を、少し画像で残しておきます。

10月15日の大台ケ原です。この日は、もう少し色付くと最盛期になろうかという紅葉の初旬でした。

Suiheisen好天に恵まれ、山頂付近からは尾鷲湾を、さらに遠くは太平洋の水平線も望まれ、標高1700mから見下ろすそれは、実に神秘的でもありました。

                                                                                                      

Daijya観光客の数も多く、足場の狭い大蛇嵓では、団体さんが小さいグループにわかれて順番に入っておられました。

俯角約45度のこのアングルは、カメラを柵の外に出して撮影しました。もう少し人が多いと、押されて危ういところでした。

   

Sonikogen

11月5日、曽爾高原です。ここを訪れたのは、ずいぶん久方ぶりで、前回の記憶はほとんどありません。

きれいに整備された観光施設や温泉なども無かったので、隔世の感があるのだろうとおもいます。同行したグループは、温泉や食事に満足のようでしたが、お土産のお米パンが売り切れて買えなかったことを残念そうにしていました。これでいいのかな?と、ちょっとだけおもいました。

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「明石」という地

言わずと知れた東経135度、子午線の通る町として有名です。
そして、今では明石海峡大橋のせいで、その地位はやや揺らいでいますが、かつては淡路へ行き来するための出入港として繁栄しました。

さて、前出の播磨風土記の逸話で明石の地が出てくるわけですが、「朝日にその蔭は淡路を覆い、夕日には大和島根を蔭とした」とあります。もし仮に件の楠の木が、淡路の北北西に位置する現在の明石港付近にあったとするならば、朝日に照らされたその影は、淡路の島影に届くことはできません。

このことより、実際はこの楠の木は今の明石市よりも東、淡路島対岸の広い範囲のどこかにあった、という研究もなされているようです。その地は、現在の明石市東部から垂水区と須磨区との境界、すなわち旧播磨国明石郡の東部付近のどこかであるようです。

はたして、「明石の駒手の井」は、この範囲うちどこなのか?。

このあたりは、川が流れるところは「谷」のつく地名が多く、その間は海岸近くまで山、または扇状地が海岸で崩落したような地形の台地をなしています。
鉢伏山 → 塩屋川 → ジェームス山 → 名谷(福田川)→ 高丸 → 大蔵谷 → 神稜台 → 伊川谷
といった具合、第二神明道路を走るとアップダウンが多く、良く渋滞する区間であることをご存知の方も多いとおもいます。

この地域で興味を引く地名は、山陽電車の“滝の茶屋駅”。ここは、台地より滴り落ちる湧き水でお茶を煎れ、旅人をもてなしたという謂れで付いた地名といわれています。良い水の湧く井戸があるという条件に合致するほか、この付近に在する城が山、王居殿、高丸といった地名にも、何がしかの由縁を想像させます。

画像は王居殿3丁目付近から淡路の眺望

01120001王居殿は、まさにこの地を治めた王の居所。城が山は、城が山に建っているのを見上げる場所。そのすぐ北東側の台地、美山台の大洋真珠の敷地は天守にうってつけの立地です。さらに福田川をはさんだ高丸は、別働隊を配置する陣地に適当な地形です。これで天然の地形を利用した「鶴翼の陣」をもつ一大城郭地帯を形成していた・・・、という説はどうでしょうか?。王居殿あたりを掘ってみたら何か出てくると思うのですが・・・。

もし、ご興味があれば“垂水”“王居殿”“滝の茶屋”などの語を入れて検索してみてください。垂水の地名の由来や、土蜘蛛の話などが目に付くとおもいます。「土蜘蛛」は時の政権に反逆していた部族の総称。入れ替わりの激しい古代王朝時代には、どこの部族でもあるときは「土蜘蛛」に、あるいは官軍にもなり得たとおもわれます。

海産資源が豊富で、淡路、山陽道から畿内への入り口に当たる、戦略的に重要な立地を支配していたここの部族は、敵対王朝からは強敵と恐れられたことでしょう。あるいは彼らは、河内王朝時代には、大王に忠誠をちかい、朝貢を果していたことの象徴的な事象を、この「速鳥」の話に反映させたのかもしれません。

しかしまあ、垂水から住之江あたりまで30海里近く、手漕ぎ船でいくら速くても5ノットぐらいでしょうから、片道6時間ですか・・・。
謎の多い古墳時代の妄想にふけるのも、ひとつのロマンではあるとおもいます。

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はやとり

>2000年10月記

『小学生低学年時代、国語の教科書にこんな物語があったと記憶しています。今はその教科書は無く、オリジナルの出典は不可能ですが、拙い記憶であらすじを綴ると以下のようになります。

ものがたり「はやとり」あらすじ。

むかし むかし あるところに、おおきな楠(くす)の木が ありました。
その楠の木は とっても大きくて、ふもとの村を 日陰にかくしてしまう
ほどに 成長してしまいました。
村の人々は、このまま木を ほおっておくと、昼でも夜のように暗いし作物も育たない、なんとかしなければ いけないと 思うようになりました。

そこで、村の人々は その楠の木を 切り倒すことにしました。
何人もの 村人が、何日もかけて、とうとう その楠の木は 切り倒されました。
後には 切り倒された大木が 残りました。
人々は これを どう処分するか なやみました。

人々は 考えたすえ、この木を 削って舟を 作ることにしました。
できあがった舟は とってもりっぱで 足の早い舟となりました。
人々は その舟に「はやとり」と名付けました。

あらすじ終わり。』

この物語の原典は、釋日本紀 卷八、現在は遺失している播磨風土記赤石郡章の引用部に見出すことができます。以下読み下し文。

むかし仁徳天皇の御代に、明石国、駒手の泉のそばに楠の大木があり、朝日にその蔭は淡路を覆い、夕日には大和島根を蔭とした。楠は伐られて船に造られたが、舟は一楫(かじ)に七浪を越えて飛ぶように走り、速鳥(はやとり)と名づけられた。明石の泉の水を毎日高津宮に届けたが、次第に速度が遅くなり、間に合わなくなったので、中止になったという。

  住吉の大倉向きて飛ばばこそ速鳥といはめ、なにか速鳥

奈良公園 春日野の楠Img_0996s

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はじめまして

はじめまして。奈良の鹿野と申します。

なぜか、今 ご ろ 今 さ ら blog を 始 め ま す

考えるところあって、むしろ今は「blogを作ってみずから情報発信しようとする行動」には、案外悪くないタイミングかも知れません。それと過去、nifty、FJAZZ会議室や、各所のBBSに書き込んだ内容を、どこかにしまっておきたいとも思い、ここを作りました。

稚拙な内容になるやもしれませんが、よろしくお願いいたします。

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