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短編小説 「明石の落日」 第一話

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*** この物語はフィクションであり、史実に基づくものではありません。***

 佐紀の宮

最初の舞台は、四世紀末の倭国。佐紀の宮(奈良市佐紀町)である。
大王(おおきみ)の留守を預かる一人の王子がいた。
名は『香坂皇子(かごさかのみこ)』。足仲彦大王(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の第一王子である。
もう一人、第二王子の忍熊皇子(おしくまのみこ)が佐紀の近隣、忍熊集落(奈良市押熊町)の住民を治めていた。

『佐紀の宮』は、盆地北部の平城山(ならやま)山麓、現在の奈良市北部に存在したと推定されている。
祟神朝から景行朝にかけて繁栄した纒向宮(まきむくのみや,桜井市)にかわって、三輪王権後期に行政機構が遷都したと見られている。
なお皇居は、都とは別に、大王ごとに各地を転遷した。
この地方は、開化朝の時代より、後に和邇氏の祖となる有力豪族のテリトリーであり、多くの高級官僚、王妃を輩出する地域でもあった。
現存する佐紀盾列古墳群は、多くが王妃陵に比定されている。宮が存在したと見られる地域は、後世に平城京の造営で、その下層に埋もれてしまった。
三輪王権から河内王権に移行する過渡期に存在した都と見られるが、その規模や性質など、実態は謎につつまれている。

香坂、忍熊両皇子の父、足仲彦大王は、本来なら熊襲征伐のため筑紫(福岡県)にいるはずである。
大王には、両皇子の義母にあたる皇后、息長足姫(おきながたらしひめ=神功皇后)が同行していた。
しかし、息長足姫は、大王の方針に従わず、自ら受けたという神託に従って半島への侵攻を敢行した。
記紀に言う『三韓征伐』である。

足仲彦大王は、その遠征の直前に謎の死を遂げる。
半島への侵攻に反対した大王を排除しようとした、息長足姫と臣下の武内宿禰(たけのうちのすくね)による謀殺が疑われている。

また、息長足姫は遠征の直前に皇子を身ごもっていた。この皇子の父親も大王ではない可能性が大きい。
半島遠征の期間、足仲彦大王の崩御は、世間にも、大和の両皇子にも伏せられた。

日本書紀、古事記に記録された、息長足姫すなわち神功皇后による『三韓征伐』。
しかし実態は和平交渉なのか、国家間侵略なのか、単なる海賊行為なのか、はたまた祖国回帰支援などと、様々の解釈があるが、詳細の解説は割愛する。
ともかく、息長足姫は一応の成果を収めて筑紫に帰還した。
そこで誉田別皇子(ほむたわけ=後の応神天皇)を出産し、皇太子に立てる。

「この子を皇太子に立て、大和の香坂、忍熊皇子には退いていただきます。誉田別が成人するまでわたくしが摂政に就きます。」

息長足姫の意は決していた。正式な手続きを経ない皇位継承、政権奪取の野望である。

          ***

両皇子に宛てて、息長足姫は大和に書簡を送った。漢文による情報伝達、当時最先端のハイテクを大和の王族はすでに持っていた。

『このたび我々は、新羅 百済、高句麗を平定し筑紫に帰還した。』
『しかし先帝、足仲彦大王さまは熾烈な戦闘に倒れ、ご崩御された。』
『ついては、播磨国明石郡、大王が屯倉を造営され、ゆかりのある淡路を臨む位置に王墓を築造すべし。』
『我々は船団にて後日大和に帰還、途中明石に喪船を着け埋葬の儀をとり行う。』
『なお皇后には皇子、誉田別(ほむたわけ)が誕生した。王族、国民より多くの祝福があらんことを望む。』

これを読んだ香坂皇子は頭をかかえた。有事とはいえ用件すべての連絡が遅延していた。
実の父を亡くした悲しみ、今後予想される喪に関わる多忙、皇位継承の手続き、義母、息長足姫と新王子への対応などなど。
多くの事柄が彼の思考回路を巡り巡って渦巻いた。

「忍熊皇子を呼べ!倉見別はおらぬか?!」

息長足姫の送った書簡、これは皇后が打った第一の策謀である。それを両皇子はいまだ気付いていない。

「これは天下の一大事。兄上さま、我々はどうすればよいのか?。」

呆然とする忍熊を前に香坂は、

「韓国(からくに)を平らげた戦功は、義母上と新皇子に民々が従う材料として余りあるであろう。それに比べ我々は…。」
「義母上は我々を試されているのだ。この試練を乗り越えてこそ大王にふさわしい人材と。」

「兄上、まず、陵(みささぎ)築造のため、急ぎ明石にまいりましょう。」

「それにしても、人が足りぬ。倉見別はどう思う?。」

王族の臣下、倉見別(くらみわけ)は、近江の中央部を拠点とする地方豪族である。その後裔が後の犬上氏となる。『倉見』という姓から、物資補給担当大臣と思われ、本拠地の近江と、それより東の東海地方とのつながりが濃い雰囲気をもつ人物である。

「わたくしの郷里を通じて、東国から人夫をある程度集めることはできましょう。」
「しかし、現地、播磨でも地元衆の手を借りぬと、とても十分な人手とはいえませぬ。」

「大王さま(仲哀天皇)が営まれた屯倉が淡路にある。そこからも応援を請おう。」
「さあ、皆の者、出立の用意をいたすぞ。」

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第二話

短編小説「明石の落日」

  大王の喪船

山陽道を西に向かうと、須磨の先は鉢伏山の北側を通る峠道、『古山陽道』である。
当時、須磨浦から塩屋にかけては、海岸まで断崖が達し、海岸沿いに街道はなかった。
摂津の国はここまで、多井畑の峠(須磨区多井畑)を越えると、そこは播磨の国明石郡である。
峠を降り福田川が流れる名谷を南に行くと、やがて明石海峡と淡路島が目の前に広がる。

香坂の一行が垂水の集落に到着すると、出迎えたのは明石国造(くにのみやつこ)代行の福田宿禰(ふくだのすくね)であった。

「皇子さま、遠い道のりをようこそおいでになりました。此度の大王さまのご崩御、心からお悔やみ申し上げます。」

「福田殿、此度は迷惑をかけるがどうかよろしく頼む。」

「はい、ただご覧のとおりわが国は貧しゅうございます。この狭い谷ですら『福田』と申しておるありさまで。」
「どうか、民々にはお手柔らかにお願い申し上げます。」

香坂は生まれつきの宮廷生活のため、中央の大和と地方とのギャップ、つまり「地域格差」を十分認識していなかった。
それとは裏腹に陵築造のための労働力は順調に集まった。香坂はこれを朝廷への支持と勘違いしていた。
実は、にわかに降って沸いた公共事業に群がる在地土建業者のような手合だった。

明石海峡に臨む海岸線は、多くが段丘となっていて水田耕作には向かない土地柄だった。
しかし、眺望抜群のウォーターフロントであり、陵の建設候補地としてはとても贅沢な立地だった。

          ***

皇后の到着は後わずか、石室は間に合わないので、にわか造りの埋葬場所を丸太の枠組みでこしらえられた。
工事は急ピッチで進行し、盛り土は大方の姿が出来つつあった。
そこへ筑紫より武将の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が一足先に帰還してきた。

五十狭茅宿禰は、その後裔に吉師部となり、主に半島との外交にあたった氏族であるらしい。この当時、五十狭茅姓は敵味方両方に見られる。一説によると、出雲王家の分派とも言われるが、謎の家筋である。当時、五十狭茅一族の代表格である彼は、朝廷の重要な軍事ポストにいる中で、正義感で他の官僚と意見を異にし、皇子側に味方した人物である。

香坂は彼の労をねぎらった。

「五十狭茅宿禰殿、此度の遠征、まことに大儀であった。義母上と皇子は息災であるか?。」

「お言葉、ありがたき幸せ。しかし、香坂皇子さまには立ち入ってお伝えしたいことが…。」
「実は…、息長足姫さまは、この度お生まれになった皇子さまをお世継ぎに立てるおつもりであらせられます。」

香坂は「さもありなん」という面持ちで、五十狭茅宿禰の話を聞いた。

「香坂皇子さまは正当なお世継ぎであらせられます。それにつけ姫さまのご意志は朝廷への反逆に等しい…。」

「五十狭茅宿禰よ、世継ぎのことを考えるのはまだ早い。誉田別皇子は義母上の実の子、義母上のお気持ちはお察しできる。」
「義母上がご帰還になれば、いずれ世継ぎの手続きが行われよう。それまで我々は、まず亡き大王さまを葬るため、陵の築造に勤しまねばならぬ。」

なおも陵の築造工事は続く。大王の亡骸を受け入れるため、石拭きの仕上げも一部で始まった。
淡路島から石を運ぶため、多数の運搬船が、ひっきりなしに海峡を行き来する。
西方の狼煙台から信号が上がった。皇后、息長足姫が船団を率いて帰還、明石に接近した知らせである。

海峡の両岸が視界に入ったころ、息長足姫は造築中の陵と海峡を渡る船々を遠目に見て言った。

「武内よ、あれを見なさい、敵はすでに砦を築き大勢の軍勢で待ち構えている。速水乃門(海峡)は多くの軍船で塞がれておる。」

「彼らはおそらく誉田別皇子さまがお世継ぎになられることを妬んでおりましょう。」

武内宿禰(たけのうちすくね)は、一説によると200年以上生きた人物ということだが、これはおそらく数人の人物を一人にまとめて伝承されたものであろう。ともかく、代々大王につかえた行政のトップである。この任務では、陸海軍大臣も兼任している、第二次大戦中の東條のような存在だ。

「武内宿禰よ、兵士を船底に潜ませ喪船に乗り、まず香坂をおびき寄せるのじゃ。」

息長足姫は、第二の策謀を発動した。

一方、陸上では香坂皇子が喪船を迎えるため、船に乗り込もうとしていた。

「香坂皇子さま、お気を付けあそばせ、武器をお持ちください。護衛の兵士をもう少し…。」

「五十狭茅宿禰よ、案ずるな。義母上さまとは話し合えば解って頂けるであろう。」

香坂は船に乗り込むと、喪船に向かって進みだした。
大王の亡骸を乗せたに装った喪船は、武内宿禰が船首に立って香坂を待った。

「武内宿禰殿、お役目大儀である。遠路ご帰還お疲れであろう。」

「香坂皇子さま、お迎えまことにかたじけのう存じます。」

武内宿禰はすかさず鉾で船板を「トン」とたたいた。
船底より兵士が一斉に飛び出し、香坂の船に飛び移った。

「なにっ?、義母上さまは我らに刃を向けられるというのか?。」

武内の兵士と、香坂のわずかな護衛との間で船上は大混乱となった。
瞬く間に香坂の直衛は鎮圧され、後続の船団からは矢がはなたれ、別の船に乗る香坂の残存兵は撃退された。
香坂皇子は深い傷を負いながら果敢にも応戦したが、敵の振り下ろした刀をかわしたタイミングでバランスを崩し、落水した。

香坂は討ち取られたかに見えたが、その後しばらく行方不明となる。

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第三話

短編小説「明石の落日」

 菟餓野

忍熊皇子と臣下たちは、海岸から一部始終を見届けたが、成すすべはなかった。

「兵を集め態勢を立て直すのだ、早く!。」

いくさがが始まったことに感づいた労務者たちは、いちもくさんに現場を離れようとして、海岸周辺は大混乱となった。
そんな時、垂水北方の高塚山(西区学園都市)の狼煙台から信号が上がった。倉見別が報告した。

「布施畑(西区布施畑)方面から軍勢が接近しているようであります。」

「どこの軍勢か?新たな敵か?。」

「いえ、よくわかりません。『イ・ノ・シ・シ』狼煙台はそう言っておるようです。」

「弟彦王(おとひこおう)の一族でありましょう。彼らは丹波の野蛮な土豪で、猪を捕らえその肉を食らい、猪の毛皮を纏う習慣がございます。」
「鴨あたり(賀毛郡=兵庫県加東市付近)では彼らに手を焼いています。まるで山賊のごとく。」

福田宿禰が忍熊らに諭した。
五十狭茅宿禰、倉見別はあきらめの表情を隠せなかった。

「まもなく、息長足姫さまの兵が上陸してくるでありましょう。新たな軍勢と合流すれば、敵は強大な兵力になります。」
「我々の主任務は陵の築造、ここには武器が十分にありません。ひとまず住吉(神戸市灘区)の屯倉(みやけ=朝廷の倉庫)まで引きましょう。」

「やむをえないな。しかし兄上はほんとうに倒れられたのであろうか?」

「忍熊皇子さま、兄上、香坂皇子さまはご存命であることを願い、私どもが捜索いたします。」
「弟彦王の一族がこの集落に達したら、忍熊皇子さまが東へお向かいになる間、適当な用件を作って足止めをいたしておきます。」

福田宿禰の提案は、忍熊たちには心強かった。
武将直轄の兵士、兵士でないもの、かき集められるだけの人員を集めて忍熊皇子たちは急遽、明石を離れた。

それからしばらくして、弟彦王の軍勢が明石に到達した。間一髪で忍熊らは脱出に成功した。
弟彦王は、事前に息長足姫から援軍の要請があり、明石で合流する予定になっていた。

「弟彦王さま、ようこそおいでを…、」

福田宿禰は、敵対心がないことを示そうとしていたが顔はこわばっていた。

「おお、ここの長(おさ)か?、ちょっとじゃまするぞ。大和の姫さんはまだか?もう日が暮れる、メシでも食わせろ。」

「はい、息長足姫さまはあそこ、船の上でございます。」
「お食事は炊守(かしきもり)がご用意いたします。今晩お休みでしたら、五色山の陵と高丸の砦をお使いください。」

「それにしても大和のバカ息子たちは逃げ足が速いのう。福田よ、おまえ後で姫さんからお咎めがあるぞ、ハッハッハッ。」

いくら待てども息長足姫の船団は、上陸してこなかった。
弟彦王は足止めを食って、その日の晩は垂水で待機せざるを得なかった。夜半に姫の船団は東へ向かった知らせが入る。

          ***   

一方、海峡上の息長足姫の船団は、海流の変化に翻弄されていた。地元の漁師が言う『イアイニチ』である。
海峡中央に近づくにしたがって船足の逆、西流が激しくなり、大きな三角波が船を襲う。船は思うように進むことは出来ない。
息長足姫は神託を請うた。なにやら神がかった様子で姫は臣下に指示を下した。

「もうすぐ波はおさまるでしょう。そののち真っ直ぐ武庫(西宮市)の水門(みなと)へ向かうのじゃ。神はそう申されておる。」

陸上では弟彦王の軍勢が待機しているが、合流することは断念された。
西流がおさまり海流は反転、東流に乗って無事海峡を通過、その日は暮れた。

岩屋(淡路市岩屋)で一夜を過ごし、船団は一路、武庫をめざし進んだ。
武庫に近づいたとき、息長足姫は武内宿禰を呼び新たな指示を与えた。

「武内よ、そなたはこの子、誉田別を守って紀伊の国まで送り届けるのじゃ。」
「これからいくさはより激しゅうなるであろう。いくさ場にこの子を連れるのはいかにも心許ない。」

「さすれば息長足姫さま、いくさ場は我々におまかせいただき、姫さまが皇子さまとともに、紀伊へ向かわれては?」

「いえ、これは神託じゃ。陸に上がったら、わたくしには神託に従ってやらねばならぬ仕事がある。どうか誉田別をよろしく頼む。」

武庫に上陸した息長足姫とその軍勢は、別れを惜しむ間もなく紀伊に向かう誉田別と武内宿禰を見送った。

          ***

さらに場面は変わり、命からがら明石を脱出し、住吉の屯倉にたどり着いた忍熊皇子の軍勢である。
すぐ後方から、いつ弟彦王の軍勢が襲ってきてもおかしくない状況に彼らは気を許す暇もない。
弟彦王の軍勢は、夜明けとともに垂水を出立、住吉の西方、菟餓野(灘区都賀川周辺)まで進出してきた。

忍熊皇子の軍勢は、屯倉を陣地に仕立てて弟彦王の軍勢とにらみ合った。
物見からは、息長足姫の船団が東へ向かった報告が入る。どうやら住吉より東に上陸する気配である。

忍熊皇子は、西に弟彦王、東に息長足姫の軍勢に挟まれた。

「東へ、大和の方角に進もう。我々は義母上の軍勢と戦う。」

忍熊皇子は静かに決断した。

「されば、『しんがり』はいかがいたされる?弟彦王の軍勢と相対するのは?」

五十狭茅宿禰は、自分がしんがりを務めようとしていたが、隊列の後から名乗り出たのは下級武将の椚麻呂(くぬぎまろ)だった。

「忍熊皇子さま、わたくしは佐紀の宮で衛兵をいたしておりました椚麻呂と申します。」
「是非、是非わたくしをしんがりに、弟彦王の軍勢を留める盾にお使いください!。」

「よくぞ名乗り出てくれた、礼を言うぞ。これを身に着けていくが良い。」

忍熊は自分が身につけている同じ装束を差し出した。

「椚麻呂よ、これから汝は『香坂皇子』となれ。これを身に着け弟彦王の前に兵士たちを司れ。兵の士気も上がるであろう。」

「ありがたき幸せ、これでわたくしは、あの世に行ってもなんの悔いもございません。」

椚麻呂だけでなく、忍熊の軍勢だれもが死出の旅を覚悟していた。
まもなく忍熊の本隊は、武庫に上陸した息長足姫率いる軍勢に向け出立する。
それに先駆け、ひそかに椚麻呂と少数の兵は、都賀川沿いを山手に向かい斜面に仮の桟敷を仕立てて陣取った。

「弟彦王よ、よく聞け!われこそは先の大王の世継ぎ、香坂皇子なるぞ!。尋常に勝負いたせぃ!!。」

「ようやく出て来おったか、バカ息子が八つ裂きにしてやる。ものども、かかれー!。」

怒涛のごとく猪の大群、いや弟彦王の兵は突撃してきた。
桟敷から矢が放たれ、猪の毛皮を纏った兵士が矢に倒れ徐々に脱落するが、厚い毛皮で致命傷を免れ、すぐに起き上がる。
椚麻呂の兵も一人一人と倒れていくが、思いのほか長い時間を持ちこたえた。

ついに、弟彦王の兵が桟敷の真下まで達し、兵たちは桟敷の土台を掘り起こし始めた。
それは、まさしく地中にいる獲物をあさる猪の姿そのものだった。
桟敷は崩れだし、椚麻呂は地面にたたきつけられた。

兵たちの後方から、赤い毛皮を纏いひときわ大柄な男が現れた。弟彦王である。

「香坂皇子、討ち取ったり!、覚悟!」

勝鬨があがり、身代わり『香坂皇子』、椚麻呂は菟餓野に果てた。

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第四話

短編小説「明石の落日」

 宇治へ

武庫(西宮市)に上陸した息長足姫は、船上で授かった神託に従って神々を祀るため、社を造営するべく計らった。
船団に同乗していた臣下の子女に、戦線が東に移動するのを待って、各地に赴くように命じる。
天照大御神は、山背根子(やましろのねこ)の女、葉山媛が、広田(西宮市広田神社)に、
稚日女尊(わかひるめのみこと)は、海上五十狹茅(うなかみのいさち)が、活田長岐(いくたのながお=中央区生田神社)に、
事代主尊(ことしろぬしのみこと)は、葉山媛の妹の長媛が、長田国(長田区長田神社)に遣わされた。

地方に社殿を造営するということは、現代で言えば、学校や公民館を建設するのと同じで、政権が住民の支持を得る材料に利用された。
箱物行政のはしりである。

          ***

一方、住吉では、椚麻呂が弟彦王と相対している間、忍熊と彼の軍勢は東に向かって進軍を開始した。
武庫に近づいた時、忍熊は義母、息長足姫の軍勢との激突を覚悟していたが、意外にも敵はさらに東に退くように見えた。
武庫には、船から降りた家族、子女が不安げに軍勢を見届けているようだ。
忍熊はこの家族の男たちと刃を交えなければならないことに、とても心苦しさを覚えていた。

政権獲得を確かなものとするには、まず大和の都に帰還することが第一の条件、息長足姫はそう考えていた。
しかし、この先、姫が大和に到達するには淀川を渡らねばならない。
その際、姫の軍勢は忍熊の軍勢に追いつかれることは必至だった。

「武振熊(たけふるくま)よ、弟彦王の軍勢はどうした?加勢には来ぬのか?」

武振熊とは、古代史に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)と記録された古墳時代の武将、和邇氏の祖である。多くのいくさで息長足姫と行動をともにした。武内宿禰とならぶナンバー2だが、武内不在のときはトップの将官である。

「おそらく忍熊との戦闘で消耗しておりましょう。それに彼らは山の衆、平地のいくさには向いておりませぬ。」

実際、椚麻呂との戦闘で結構な損耗をこうむり、弟彦王は一旦、丹波へ帰還していた。
息長足姫軍の将、武振熊は、鳥飼(大阪府摂津市)の渡しで忍熊との対戦を決意した。

息長足姫の軍勢に対し淀川の渡し舟の数は多くはない。
いかに損害を少なく多くの軍勢を川向こうに移動するかが武振熊に課せられた。

はたせるかな、息長足姫と忍熊の軍は、淀川の堤で対峙した。

「弓矢、放てーー。」

一斉に両軍から弓矢の応酬が始まった。
すでに息長足姫は、一足先に渡し舟で対岸まで達していた。
なおも弓矢の応酬は続くが、その向こう側では姫の軍勢はピストン輸送で渡河を続行している。

忍熊の軍は、敵の弓矢隊に斬り込んで大損害を与えるも、対岸から渡し舟の上からも弓矢は飛来する。
淀川の堤は大混戦となり、かなりの兵士を堤に置き去りにして息長足姫の軍勢は渡河に成功した。

姫の軍に渡し舟を処分され、忍熊の軍勢は、川向こうにいる姫の軍を追うことは不可能となった。
息長足姫の軍は手痛い損害をこうむり、忍熊は戦術的に勝利したが、姫側は初期の戦略的な目的を達した。

忍熊の軍勢もかなりの損耗があり、どこかで兵力の回復と補給を行わねばさらなる戦闘には耐えられない。

「敵は、本拠の筒城(京都府京田辺市)に帰り、力を回復いたしましょう。さらには大和へ・・・。」

五十狭茅宿禰は、すでに次なるいくさのなりゆきを予測していた。

「敵が都に上り、即位を宣えば、我々は賊軍に成り下がります。その前に叩かねば。」

「五十狭茅宿禰よ、あわてるな。敵を追い、山城から歌姫街道(京都府道22号線)を上ることは、火の中に飛び込むに等しい。」

「近江のわたくしの郷里より、もう少し援軍を呼ぶことはできます。」
「このまま淀川の堤を北に進めば、菟道(うじ=京都府宇治市)あたりで落ち合うことができましょう。」

忍熊は倉見別の提案を採用することにした。

「よし、最後の決戦は、菟道だ。」

菟道に到達した忍熊は、仮の宮を造営し、忍熊が新帝に就くことを宣言した。
諸国に向け、忍熊の新王朝を支持するよう、また、息長足姫の立てた政権は反動勢力であることを訴えたが、思わしい反応は返ってこなかった。
諸国の人々は、事の成り行きを見守っているようだ。いよいよ決着をつけないと事は収まらない気配が濃厚となった。

          ***     

山城国筒城郡(つづきのこおり)は息長氏の本拠地である。淀川を渡り筒城に脱出した息長足姫は、兵士たちにしばし休息の時間を与えた。

さらに息長足姫は紀伊国に赴き、誉田別と武内宿禰に再会する。
誉田別皇子は初めて大和の地に入り、息長足姫は摂政に即位する。

かつて香坂がいた佐紀の宮は、王族、臣官などもぬけの殻で、首都機能がストップしていた。
都の機能を回復するため、息長足姫と誉田別の前途は多難のようだった。

皇子と姫は佐紀の宮に残り、菟道に布陣した忍熊に対抗するため、武内宿禰を派遣した。
筑紫より帰還したときを上回る兵力を編成し、武内宿禰と武振熊二名の武将が、それぞれの軍と姫の直轄軍の三つを指揮する。

筒城の駐屯地を発した武内の軍勢は、ただちに忍熊側に察知された。
宇治川の背後、大吉山の物見からは、武内の大軍が移動するのが手に取るように見えた。

両軍が川をはさんで布陣し、決戦の火蓋は切って落とされた。

弓矢の応酬に始まり、武内側は、対岸に突撃するタイミングを計っていた。
そこへ忍熊側からひとりの武士がしゃしゃり出る。熊之凝(くまのこり)だった。
彼は声高らかに兵士たちに檄(げき)を飛ばし、敵軍を扇動した。
川の水量は少ない。武内の兵は、堤を降り忍熊側に突撃してきた。

「今だーっ!」火矢が上がった。

天ヶ瀬に築いた堰が解かれ、溜まった水を一気に放流、濁流となって武内の兵を襲う。
突撃した兵の多くは流され、武内の軍は大きな損害をこうむり、戦闘は膠着した。

これではいつまでたっても敵を打ち破ることはできないと悟った武内宿禰は、三軍すべての兵に号令した。
「髪を結い上げ、ひかえの弓づるを髪に隠し、木刀を帯刀せよ。」

武内宿禰は、あらかじめ息長足姫に仕込まれた第三の策謀を発動した。対岸の忍熊皇子に対して叫びかけた。

「忍熊皇子さま、私は天下を欲しがらず、ただただ幼い皇子を抱いてあなたにお従いするのみです。」
「どうして戦う事がありましょうか。どうか共に弓を絶って武器を捨て和睦いたしましょう。」
「忍熊皇子さまは皇位につき、安らかに政治をなされることを望んでおります。」

武内は全軍に、弓の弦を切り、木刀を外して川に投げ入れるよう命じた。

忍熊は、その言葉を信じて停戦に応じた。
「武内殿、相わかった、こちらも武装を解こう。皆、武器を川に投げ入れよ。」

忍熊側が武器を棄てるのを見届けた後、武内宿禰は再び全軍に命じ、控えの弦を取り出して張り、背中に隠した真刀を抜いて突撃した。

忍熊皇子は欺かれた。

「図られた、すでに控えの武器はない・・・。」
「武内宿禰よ!そのようなあざとい手段で天下を盗るなど、末々後の世まで祟あるぞ!!。」

忍熊は兵とともに近江方向に逃走したが、山城と近江の国境、逢坂(おうさか)で追いつかれた。
狭狭波の来林(ささなみのくるす,大津市)に至って、武内側の一方的な惨殺戦を呈し、忍熊軍は壊滅した。

忍熊皇子はさらに逃走したが、その先は行き止まり、琵琶湖の岸であった。

「いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内朝臣が頭槌(くぶつち)の 痛手追はずは 鳰鳥(におどり)の潜せな」

五十狭茅宿禰に、『武内宿禰の手痛い攻撃を受けるまえに鳰鳥のように水に潜ろう』と、のたまった忍熊の詩だが、入水して死亡したかどうかは定かでない。

武内宿禰は、忍熊を本当に倒したのかどうか、もうひとつ確信はなかった。
しかし翌日、下流の宇治川で忍熊皇子らしき遺体が発見され、武内は息長足姫に忍熊皇子討伐を報告した。

ここに正当な皇位継承者、香坂皇子、忍熊皇子の兄弟は、息長足姫とその臣下により排除された。

* * * * *

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第五話

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短編小説「明石の落日」

 奇跡の生存

いくさの火蓋が切って落とされた直後(第二話)、武内宿禰(たけのうちのすくね)の軍勢に圧され、迎えの船から落水した香坂皇子(かごさかのみこ)は、その後、明石の沖を漂い、生死の境を彷徨った。

半日も経ったであろうか。その日の夕暮れ、香坂皇子の傷ついた体は舞子の浜にうちあげられた。
意識が戻らないうちに香坂皇子の体は救い上げられ、現在は歌敷山(垂水区)と呼ばれる高台にある一軒のあばら屋に運び込まれた。
香坂皇子を救ったのは明石炊守(あかしのかしきもり)、国造(くにのみやつこ)代行の福田宿禰(ふくだのすくね)の臣下であった。

「お目覚めになられましたか?」

「ここは?・・・・・・」

「わたくしは明石炊守、香坂皇子さま、忍熊皇子(おしくまのみこ)さま配下の皆様にお仕出しする飯場を司っておりました。」

「おお、そうであったか、大儀である。我は香坂皇子であるぞ。」

「ははーっ、やはりそうでございましたか。お持ちの立派なお刀とお身なりで、さぞご身分の高い方とお察しいたしておりました。福田宿禰さまよりご丁重に看病するよう仰せつかっております。」

「で、いくさはどうなった?忍熊皇子は?」

「皇子さま、急に動かれるとお体にさわります。まず何か口にされたほうが・・・、ここには食べ物は豊富にございます。」
香坂皇子は今、自分の周辺が敵か味方なのかの判断もつかなかったが、傷ついた体のため、なすすべはなかった。

「わたくしにはわかりません。ただ、この周りは弟彦王(おとひこおう)さまの軍勢がひしめいています。ここをお出になることは危険です。」

「弟彦王?義母上(神功皇后)に加勢した軍勢か?」

「はい、兵士はみな猪の毛皮をまとっております。将とおぼしき大男は赤い毛皮を。」
「武装した軍勢に、はむかうこともできず、弟彦王さまのお指図で今日から我らはやむなく猪の毛皮をまとった兵士たちに食事と兵糧をお納めいたしております。」

「そうか、やはり我々の軍勢は・・・」

「まもなく福田宿禰さまがここにおいでになるでしょう。なにかわかるかもしれません。それまでゆっくりお体をお安めなさいませ。」

夜もふけた頃、国造とは見ても似つかぬ質素な男があばら屋を訪れた。
「香坂皇子さま、福田宿禰でございます。お体のかげんはいかがでございますか?」

「かたじけない。陵築造の件ではいろいろ世話になった、礼を言う。」
「しかし、我は今、囚われの身となってもおかしくない立場。それを匿うとは?」

「香坂、忍熊の両皇子さまは大和の正当なお世継ぎにあらせられます。」
「それにつけ此度の息長足姫(おきながたらしひめ)さまのお振舞いは、まさに大和への反逆にほかなりません。」
「我らは、多くの軍勢に はむかうことはできませんが、皇子さまがたへの忠義は忘れておりませぬ。」

「重々ね頭がさがる。それはともかく、忍熊皇子とわが軍勢はいかに?」

「忍熊皇子さまは弟彦王の軍勢に押されて東の方に退却なさいました。」

「そうか、住吉には屯倉があるので、そこで軍勢を立て直し補給もできよう。」

「今、ここへ来る道筋を見渡してまいりましたが、高丸の砦から、五色山で築造中の陵(みささぎ)も砦と化し、弟彦王の軍勢であふれております。」

「義母上の軍勢はいずこに?」

「いまだ明石速水乃門(海峡)を大勢の船団で漂っておられます。」

「おお、こうはしておれぬ!、一刻も早く皆を追わねば・・・。」

「皇子さま、なりませぬ!そのお体で外に出られることは・・・・・。」
「弟彦王の軍勢は、明朝、東の方へ向かって出立するはずです。今はここで静観されることが賢策でございます。」

「しかし・・・、う、うっ」
香坂皇子は負った傷の深さを遅くも悟り、起き上がることはかなわなかった。

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第六話

短編小説「明石の落日」

 垂耳王

香坂皇子の傷が完全に癒えるのには数ヶ月を要した。
この間、息長足姫(神功皇后)の軍は勝利し、生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)とともに大和に凱旋した。

船上での戦闘で振り降ろされた刀が顔面をかすり、香坂皇子の片方の耳たぶは半分切れ垂れ下がっていた。
かつての香坂皇子の顔を知るものは周囲に多くいない。しかも、ごく側近の者でないかぎり、この人物が香坂皇子と認識できないくらい容貌は変わっていた。
福田宿禰が何かを伝えに来た。

「皇子さま!忍熊皇子さまがご存命のようですぞ!」

「何とな?菟道(宇治)川で戦死したのではなかったのか?」

「高志国(越前=福井県)へ参った行商のものが、かつて明石で皆を率いている忍熊皇子さまのお顔を覚えておりました。かの地で賊徒討伐に手柄を立てている、とのことであります。」

福井県丹生郡越前町の劔神社の社伝には、敗戦より逃れた忍熊皇子が、この地域に至って賊徒を平定したことから,配祀されたと伝えられている。

「おお、我もかの地へ出向いてみたいものよのう。使いの者は出せるか?」

「否、忍熊皇子さまも、かの地ではご身分を隠してお過ごしのようです。」

「そうよの、なんともどかしい。」

「お心、お察し申し上げます。」
「ところで皇子さま、いつか申し上げようとは思っておりましたが、たってのお願いを聞いてはいただけませぬか?」

「たってのお願い?」

「われらの『大王(おおきみ)』に立ってはいただけませぬか」

「大王?」

「そもそもわれらの長(おさ)は、倭磐余彦大王(やまといわれひこ=神武天皇)さまが大和に上られる際、水先案内をされた椎根津彦尊(しいねつひこ)さまにはじまり、今をときめく葛城の祖、垂水宿禰尊(たるみのすくね)さまのお血筋をひく王家が明石国造を仰せつかっておりました。」
「しかし、垂水宿禰王さまより五代が過ぎ、大和との血縁は薄くなり、今はお世継ぎがおらず国造は空位となっております。」
「その後、わたくし福田宿禰が国をまとめる役をお代わりいたしておりますが、うまく国が纏まらず、そこへもってきて此度のいくさでございます。」

「いくさを起こしてしまったおかげで、播磨の民は疲弊し迷惑をかけてしまった。」

「いくさが終わり、皆の者は以前のように海のものを採り、山のものを国の外に商いに戻ることができました。」

香坂皇子は、この豊かな播磨が受けた受難にようやく気づき始めていた。
「明石の西には真珠を産する一族がおったであろう?佐紀の都にも多く届いておったぞ。」

「はい、玉津の一族が明石川の入江で採れた真珠をあちこちに出荷しておりました。」
「しかし、かつては大和の大王さまがご遠征などの際このあたりを通られる時、真珠だけでなくアワビや絹など高価な産物を多く召し上げて行かれるため、そのたびに我々は苦しんでおりました。」

「おお、なんと・・・・・」
香坂皇子は、かつては自らも搾取の一翼にいたことに心苦しさを感じ、とまどった。

「我らは戦乱の無い播磨を望んでおります。そのためには国を纏める王が必要なのです。」
「皇子さまは垂水宿禰尊さまのはるか上を辿るお血筋であらせられます。王に立っていただけるのであらば、国中が王を慕い纏まりましょう。」

「しかし我は、大和の朝廷からすれば、今は謀反人。」

「皇子さまのご身分は決して国外に口外いたしません。皇子さまはただ『播磨の王』として君臨していただければ・・・」

「うむ、どこまで隠しとおせるか我も自信はないが・・・、すでに我は大和に帰れぬ身、播磨が纏まれば、吉備、大和に匹敵する国に発展できるかもしれぬ・・・。」
「皇子とか大王と呼ばれることは差し支える。体を表す名がよかろう。『垂耳(たるみみ)』でどうじゃ?」

「垂耳王?!」

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第七話

短編小説「明石の落日」

 播磨の統一

「皆の者!よく聞け!。このお方はかつて明石を治められた垂水宿禰尊さまの末裔、垂耳王さまなるぞ。」

垂水宿禰は傍系とはいえ、父、仲哀王をさかのぼる6代前の開化王の家系であるから、まんざら間違いでは無い。

「幼少のころ、大和よりこの明石にこられ、ようやくご身分を明かされた。今日よりこの垂耳王さまが我らの大王にあらせられるぞ!」

名谷の東側の高台には、にわか作りの砦が撤去され、新しい宮が建設された。
人々はいつしかこの台地を「王居殿」と呼ぶようになり、その周辺に集落ができた。
海岸や水田より一段高い土地であったため、天然の要害となった。この集落あたりは「城が山」と呼ばれた。
質素ではあるが、明石の都として一応の体裁は整った。

名谷の西側には、今まで通り高丸の砦があり、その脇にはひときわ高い楠の大木がそびえていた。
この大木は、長らく明石のシンボルであり、海峡を行き交う船の道しるべとなっていた。
木の中ほど枝分かれの部分には桟敷が設けられ、物見に供されていた。
ここから四方を眺めると、西は吉備の国を、南は淡路の屯倉から荷を積んだ船々が、東は大和より滝坂の峠(生駒山系)を下りる軍勢が観望できた。

さて、息長足姫(神功皇后)が摂政に就いた大和の都では、度重なるいくさによる疲弊を癒すため、国力の回復に専念していた。
明石で香坂皇子が「垂耳王」として生き延びていることも知られず、播磨が急速な経済復興をなしつつあることも関心を持つことは無かった。

垂耳王は明石国造の名で、多くはないが、定期的に大和の都に向け真珠や絹を貢物として贈った。
佐紀の都で、貢物を受け取った息長足姫は、おおいに喜び浮かれたことは想像に難くない。
これは、播磨が朝廷に対して、敵意のないことをアピールすることだけでなく、朝廷が関心を持つ次なる支配ターゲットを、播磨以外に向ける効果を狙っていた。

垂耳王の名声は、すぐに播磨国内に波及し、西部の針間が、ついで北部の鴨が垂耳王の勢力化に糾合された。

「大和は、諸国に対して多くの貢物を要求して、各国はその対応に苦慮しているようであります。」

垂耳王は、権力と軍事力を背景とした、実体のない経済に頼っている大和に、辟易していた。
「大和は諸国から物をあつめ、人を奴婢として連行し、都を造り、陵を築いてきた。今もやりかたは変わらんのう。」

「それにつけ、垂耳王さまが自主的に大和に貢物を納められるため、針間、鴨の負担はずいぶん軽減されたと喜んでおります。」

「ここには豊かな海がある。米だけでなくいろいろな農産物も多く採れる。但馬では鉄もできる。平和な世が続けば民は潤う。」

それ以外に、明石を通る街道と海峡を行き来する商船からは通行税も徴収していた。
しかし朝廷の船からは金品を取ることはなかった。
彼らと良好なコミュニケーションをとることで、情報収集し大和の様子が手によるように把握できた。

経済力の発展にともなって、しだいに播磨は大和と対等の政治力、外交力をも備えるに至った。
大和の息長足姫は、そのことを快く思わなかったが、軍事的に圧力を加えることは、周辺諸国や民衆のイメージを損なうばかりか、重要な補給源をも断たれることにつながるので、彼らにそれを思いとどまらせた。
西では吉備国が発展しつつあり、播磨は畿内との緩衝地帯として無言のうちにプレゼンスを醸していた。

明石にそびえる大楠は、視覚的なシンボルとしてだけでなく、後に播磨風土記、速鳥の逸話にあるように、
 『朝日には淡路を、夕には大和島根を陰とした』
と、明石の王権が、政治的に国外にまで影響力を及ぼしていたことを比喩させる材料にもなった。

時は過ぎ、垂耳王が即位して二十年あまりが経とうとしていた。

儀母、息長足姫(神功皇后)は崩御し、摂政時代は終わりを告げた。
いよいよ誉田別大王(応神天皇)の時代が到来した。

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第八話

短編小説「明石の落日」

 誉田別大王

誉田別(ほむたわけ=応神天皇)が皇子のころより、播磨は、誉田別のテリトリーである摂津、河内とは重要なビジネスパートナーであった。
播磨とは、持ちつ持たれつの関係が成立していたので、お互いに相手を尊重しあっていた。

ただし誉田別には、播磨の垂耳王が、かつて母と争ったこと、義兄であることを認識する材料はなかった。
垂耳王は、自ら表舞台に出てこようとはしなかったので、誉田別とは実際に顔を合わせたことがなかった。

朝廷の軍勢が西方へ遠征するときも、なんのトラブルもなく領地を通過し、こころよく供出に応じるこの国の王は、どのような生い立ち、成り立ちなのだろう?。播磨王家の振舞いは、大和王家のそれに通じる他の地方王家とは違う垢抜けた面をも醸していた。
誉田別は、垂耳王の器の大きさに感心するとともに、何某か彼と共通した生い立ちをイメージするようになった。

誉田別はたびたび淡路島に狩に出かけていた。
ある日、誉田別は狩の帰りに、ふとしたことから密かに垂水、王居殿の宮に立ち寄った。

「垂耳王さま!お客様でございます。狩からお帰りの「品太」さまと申しておられます。大和の宮中のお方かも。」

垂水宿禰の耳には「ひんだ」と聞こえたが、垂耳王はすぐさま客の素性をさとった。

「座敷の上の手にお通しせよ!くれぐれも丁重に。」

「かしこまりました。」

王居殿の座敷は、上の座からは明石海峡が眺望でき、淡路の島影が雄大に広がっていた。

「垂耳王さま、初めてお目にかかります。しかし我の座はいささか高こうございます。」

「こちらこそ初めてお目にかかります。遠い道のりをようこそ、このような質素な宮においでいただき、かたじけのう存じます。」
「おいでになった知らせに、すぐさまお客様が大王(おおきみ)さまであろうとお察しいたしておりました。」

「おお、いかにも我は誉田別ではありますが何分即位間もない若輩、あなたさまは一国の王、垂耳王殿であらせられる。」

垂耳王は、なおも下の座でひれふしたまま、

「此度の摂政母君さまのご崩御、心からお悔やみ申し上げます。また誉田別大王さまのご即位を謹んでご祝福いたします。」

「おことば恐縮にございます、どうか面をお上げくださいませ。」
「それはそうと、垂耳王殿、あなたさまは、かつて大和の宮中におられた方ではございませんか?」

「・・・・・・」
垂耳王は返す言葉がなかった。

「摂政母君より昔話を聞かされ、わたくしが生誕したころ、賊徒との戦いで我々を守るため、多くの皇人がここ明石で命を落とされたとか。」

垂耳王は事実との相違に唖然としたが、表情に出すことをかろうじてこらえた。

「義兄の香坂皇子さま、忍熊皇子さま・・・・・。」
「忍熊皇子さまは、その後ご存命であることがわかり、都へお戻りになるようお勧めしましたが、お断りになられました。」
「わたしには、香坂皇子さまが、かくもあっけなく果てられたことが、にわかには信じがたいことでした。」

「で、大王さまは、香坂皇子さまがもしやご存命とお思いと?」

「いかにも・・・・」 「お歳や即位された時期など状況はそろっております・・・・香坂皇子さま?」

「おお、もしそれが事実であるとすならば、香坂は大和を棄てた身の上。裏切り者に等しい輩。」

「めっそうもございません。正当な皇位継承者さまに都にお帰りいただき、帝位にお就きいただきたい、もしあなたさまが香坂皇子さまならば。」

しばらく会話が続き、誉田別を信用できる相手と見極めたため、垂耳王は直って口上を述べ始めた。

「おそれながら申し上げます。天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れられることは地の如くでなければなりません。」
「上に民を喜ぶ心があって国民と接すれば、国民は毅然として天下は安らかでありましょう。」
「わたくしは辺境、播磨一国の王、東国西国を纏める国家に仕える事は重大なことでございます。わたくしは不肖にてとてもかないませぬ。」
「先の摂政君は、前もって神のおぼしめされた人を選び、誉田別さまを皇太子として立てられました。大王にさいわいあらしめ、万民をお授けになられました。」
「どうか母君、息長足姫尊さまのご擁立を疑われず、帝位をお続け下さいませ。わたくしは大和の後ろ盾として播磨の地でお助けするばかりでございます。」

事実上、垂耳王は香坂であることを認めた。
誉田別は垂耳王の格調高い口上がどこから来るのか虚ろだったが、さらに返した。

「垂耳王さま、いや香坂皇子さま、お話はとくと拝聴いたしました、が、わたくしがこのまま大和に戻れば、わたくしの義が立ちませぬ。」

「それでは誉田別大王さま、その代わりといっては僭越なのですが、たってのお願いがございます。」

「お願い?・・・・・」

「わたくしの末子に『稚郎子(わきいらつこ)』という男子がおります。まだ幼い子なのですが、すでに韓国(からくに)伝来の書物に興味を示しております。」

「人質を・・・、ということでしょうか?」

「いえ、この子を大和の地に向かわせ、良き師をお与えになっていただきたい、というお願いにございます。」
「この子が勉学にはげみ、文物、典籍に通達すれば、必ずや大和の政治にお役に立てる人材に育つと信じて疑いません。」

「よろしいのでしょうか?垂耳王さまのお世継ぎでございましょう?、そのかわり大和は播磨のためになにをすればよいのか?・・・。」

「代償など求めてはおりませぬ。幾年も平和な世が続くために、大和と播磨の掛け橋となるならば、この子が。」
「今ひとつ、わたくしが香坂であることは、世間にはお伏せいただきたい、誉田別大王さまのお心に留めていただきとう存じます。」

「おそれいりましてございます。」

その夜は誉田別大王をまねいて、盛大な宴が催された。

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第九話

短編小説「明石の落日」

 再び弟彦王

数か月後、稚郎子(わきいらつこ)を迎えに大勢の使節が播磨を訪れた。
使節の代表は、「阿直岐(あちき)」。百済から倭に漢学をもたらした渡来人である。

稚郎子には、阿直岐のもたらした文物は、将来への希望に満々ていた。
しかしそれは父、垂耳王との懇情の別れを意味していた。

「父上さま、稚は必ずや立派に成就して宗廟社稷(くにいえ)にお仕えいたします。」

小学生ぐらいの子供が「宗廟社稷」という言葉を使うのはいかにもでき過ぎている。
かくして稚郎子は大和へ旅立った。

          ***

そしてまた数年が経った。

稚郎子の天才ぶりは都中の評判となった。
同時に、父、播磨の垂耳王の存在がにわかにクローズアップされるにおよび、彼の成り立ちに人々は興味をしめした。
いつしか都の人々の間では、かつての香坂皇子の記憶をよびおこし、垂耳王の存在とオーバーラップさせるようになった。

その噂にただならぬ反応を示した人物がいた。弟彦王(おとひこおう)である。

香坂皇子は、今を去る三十数年前、弟彦王により菟餓野(神戸市灘区)で討ち取られたはずである。
播磨が平定されたことで、丹波の足元を押さえられた弟彦王一族は、勢力範囲を広げることはできず、かねてより播磨は足かせとなっていた。加えてその香坂皇子が、よりによって播磨で生き延びているということは、弟彦王のプライドを許すことではなかった。

弟彦王は播磨に密偵をはなち情勢をうかがった。

「弟彦王さま!密偵が戻ってまいりました!、垂耳王は香坂皇子に違いありません。」

「やはりそうか。えりぬきの兵士を百名ばかり集めい。能勢に集結させ出陣を待て。」

「ははーっ!」

播磨の垂耳王、すなわち香坂皇子を討つ。弟彦王の心に迷いはなかった。

この当時、弟彦王のテリトリーである丹波とその周辺において、能勢はその南端に位置していた。
能勢からは、すぐ西隣の美嚢郡(兵庫県三田市)を経て、明石までは一日足らずの行軍である。
正規の軍事行動ではないので、事は隠密裏かつ迅速に遂行せねばならない。

「密偵によりますと、垂耳王は、毎月決まった日に、少数の従者を連れ、狩に出かけるようであります。次のその日は明後日。」

「よし、出立は明日夕刻じゃ!。各自、猪の毛皮を整え出陣に備えい。」
「いまこそ菟餓野で討ちもらした香坂の首を取り、誉田別大王さまに播磨の国をささげるのじゃ!!。」

弟彦王は、誉田別と息長足姫が大和へ上るとき加勢し、忍熊皇子らを追撃して軍功を得たが、もともと誉田別の掌握下ではなかった。
誉田別はもとより、畿内の人々にも悟られることなく、矢は放たれた。

能勢を発った弟彦王と猪の毛皮をまとった兵士たちは、夜陰に乗じ一路、裏六甲の谷を行軍し、夜半には有馬に、未明には布施畑(神戸市西区)に達した。

          ***

その朝、垂耳王は数人の若い従者を率い、狩口(垂水区狩口台)まで出た。

「本日は、これからの播磨を占う誓狩(うけいがり)である。良い獲物が捕れれば播磨はいっそう豊かになるであろう。」

「王さま、はるか向こうに猪が一頭たむろしています。」

「おお、すでによい兆しが現れたか。」

その猪は弟彦王の先鋒、索敵役の兵士であった。すぐさま、目標、垂耳王に接触した報が弟彦王にもたらされた。
弟彦王は奇襲に成功した。

「かかれぇーーー!!」

林の陰から百あまりの兵士が一斉に飛び出し、垂耳王を襲うべく走り出した。

「王さま!猪の大群です!!。」

「なにぃっ?・・・・・あれは猪ではない、軍勢。」    「是非におよばず。」
「皆!、王居殿の宮に引くのだ!速やかに。」

「はいっ!」

弟彦王の兵とは、わずかな距離を隔てて、垂耳王は従者とともに東に走った。
歌敷山を過ぎ、高丸の斜面、大楠のたもとに到達したとき、垂耳王は従者に指図した。

「やつらの目当ては我一人。」「汝らは急ぎ王居殿の宮にもどり、迎えの兵を立てよ!。」

「垂耳王さま!王さまはどうされるのですか?!。」

「我はこの大楠の桟敷に上る。我が上ったら、はしごをはずせ。」

「お一人で残られるのですか?。」

「ここに達した敵は、我を討ち取るため、この大楠を切り倒すであろう。それまで時を稼ぐ。」

「それは・・・、それはあまりにも惨うございます、王さまを犠牲にするなどと。」

「はよう行け!!、軍勢はすぐそこであるぞ!」
「この大楠は明石を守る大事な徴(しるし)、そう易々と倒されるものではない。万一この大楠とともに我も倒れるなら、それも本望。」
「我が倒れた後は菟道の稚郎子(うじのわきいらつこ)をたよるがよい。」

弟彦王の兵たちは、従者を排除し大楠の根元を掘り起こし始めた。

「皆に伝えよ!、もしこの大楠が倒されたならば、それを船に造り、我の魂を納めよ!。」
「一楫(かじ)に七浪を越え、速きこととぶ鳥のごとく海を駆け、播磨の幸を西に東に送りとどけるのじゃ!!!。」

「垂耳王さまー!王さまぁーーー!!!。」

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第十話

短編小説「明石の落日」

落日、後日談

大楠は音をたてて傾き始めた。轟音とともに土煙が立ち昇り、垂耳王は地面にたたきつけられた。
すぐさま弟彦王の兵は、垂耳王に斬りかかり瞬く間に体を八つ裂きにした。

ようやく王居殿の宮から迎撃の兵がたどり着いた時、すでに遅く、弟彦王の兵たちは勝鬨をあげていた。
播磨の兵は、敵の軍勢に斬り込んだが、敵は反撃せず速やかに戦場を離脱した。

明石の巨星は落ちた。
倒れた大楠の周囲で、王居殿の宮で、垂水の集落で、兵士、宮人、民々たちは呆然とした。

            ***

垂耳王が討たれた報が大和にもたらされると、誉田別大王(応神天皇)は激怒した。

「皆のもの!出陣じゃ!!、丹波の弟彦王を討つ!。」

「大王さま、しばしお待ちください。」

若きエリート軍師、養子の稚郎子(わきいらつこ)が大王を諭した。

「おそれながら申し上げます。今、大王さまの軍が丹波をお攻めになられると、畿内は大いくさになります。」

「何だと?、垂耳王は汝の実の父君であるぞ!。父君とは、汝が大和へ入るときの盟約がある。」

「はい、重々承知いたしております。」
「しかし播磨には弟彦王殿勢力下の住民も多数おり、丹波で有事の際はその者たちが呼応しましょう。」
「播磨が分裂し、丹波、摂津、大和をかけたいくさに発展すれば、その隙に西の吉備が播磨を侵そうと覗うでありましょう。」

「父君が討たれたというのに、汝は何ゆえ?・・・・・。」

「大王さまは、広く諸国を纏め、お治めになるお立場、親者の情より『天下の計』を重んじになる、今はその時かと。」

有力武将が集められ、軍議の席が設けられた。
弟彦王の行動を軍功と評価して朝臣に迎え、同時に播磨、丹波を直轄領に組み入れる、という案も出たが、さすがにそれは却下された。

「大王さまの軍は、播磨にお入りください。そこで播磨領内にいる弟彦王の手の民々を牽制していただきとうございます。」
「摂津の義兄、大さざき皇子(仁徳天皇)さまの軍は、南から能勢方面を固めていただきます。」
「菟道(うじ)にいるわたくしの軍は息長氏の軍と共同で、丹波、山城の国境、老の坂(京都市西京区)を固めます。」

かつて香坂、忍熊と刃を交え、弟彦王が支援した息長氏と組むというのは、時代の趨勢とはいえ、皮肉なことである。

「丹波の周囲を朝廷軍で取り囲み、弟彦王一族を封じ込めれば、彼らは討って出ることはかなわず、いずれ沈黙いたしましょう。」
「しかる後、大王さまは弟彦王殿に向け、詔(みことのり)を授けられると宜しいかと。」

誉田別大王は播磨に入った。播磨風土記に言う『播磨巡幸』である。
この際、託賀郡(多可郡=兵庫県丹波市)で村長(むらおさ)多数が殺害される、いわゆる『黒川事件』が起こった。弟彦王系住民に対する見せしめである。
『摂政息長足姫様の宿敵、香坂皇子討伐せり』…朝廷には建前上、香坂の記憶はない。弟彦王の嘆願は、もはや無駄の遠吠えとなった。

            ***

詔の一『弟彦王と一族は、吉備国藤原の県(岡山県和気郡)に転封とする。丹波は召し上げ。』

後世の解釈では、軍功により領地を与えられたことになっているが、弟彦王の行動は、自らのみの覇権とみなされ、テロ行為をきびしく譴責されることになった。
しかし過去の軍功による評価が相殺され、生命は安堵された。
藤原の県は、吉備東部の未開の地である。吉備王権の影響力も比較的弱く、朝廷の先鋒、兼防波堤として左遷されたかたちである。
ここで一族は発展し、『和気氏』の祖となった。後にこの一族から和気清麻呂を輩出することになる。

詔の二『許可なく猪を大量に捕獲し軍用に供することを禁ず。かつて捕らえられた猪を供養すべし。』

能勢地方には、応神天皇が詔を発して、猪を供養するため能勢の村々に対し、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じ、『亥の子餅』を朝廷に献上する習慣が興った、という伝承がある。
また、和気氏の氏社である各地の和気神社には、社殿の両サイドに狛犬ならぬ『狛猪』が鎮座している。
和気清麻呂が大隅に左遷される際の逸話にも現れるように、古来より猪は和気氏のシンボルである。

詔の三『明石で築造未完の陵を完成し垂耳王を葬るを許す。こののち播磨は朝廷の直轄領とする。』

五色山の陵(みささぎ)は、工事途中に戦乱が勃発、砦に転用され、その後放置されていた。
完成すれば全長200mを超える壮大な前方後円墳である。現在は垂水区五色山にある埋葬者不明の『五色塚古墳』である。
本来ならば『香坂垂耳尊赤石陵』とでも呼ばれるべきだが、記紀は香坂、忍熊両皇子を謀反人と解釈した。
また、現存する播磨風土記は、赤石郡(明石)の全文が欠損しており、垂耳王の存在は歴史から抹殺された。

明石に残った垂耳の王族は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に播磨帰還を打診したが、稚郎子は動かなかった。
時代は、かつての諸国に豪族王権割拠の時代から、大和による集権国家への変革をなしつつあった。
稚郎子は、その歯車のひとつにすでに組み込まれ、集権システムを構築する立場にいることを当然のように自覚していたが、垂耳王の精神は、ヤマト王権の中で彼に受け継がれた。

畿内とその周辺のあらゆる富を集約した強大なヤマト王権、『河内王権』の幕開けである。

短編小説『明石の落日』おわり

*** この物語はフィクションであり、史実に基づくものではありません。***

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短編小説「明石の落日」紹介

なにを血迷ったのか、小説なるものを書いてみました。

古墳時代を舞台にした歴史小説です。
一応、フィクションではありますが、日本書紀、古事記、風土記をベースにしています。

記紀自体が、史実とは異なる記録という評価が多い中、そこへ独自の解釈を肉付けした内容ですので、ナンセンスと思われる方も多いとは思いますが、それすなわち“フィクション”と考えています。

福田宿禰や椚麻呂など、架空の人物も登場します。しかし、かなりの人名、地名が、記録や実在に則しています。
人名、地名、語句などをネットで検索していただくか、他の文献を参照して追考していただくと、また新しい発見があるかもしれません。

なを、小説の進行は、投稿順とは逆です。

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どうぞよろしくお願いいたします。

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   ***  目次  ***

   第一話   佐紀の宮

   第二話   大王の喪船

   第三話   菟餓野

   第四話   宇治へ

   第五話   奇跡の生存

   第六話   垂耳王

   第七話   播磨の統一

   第八話   誉田別大王

   第九話   再び弟彦王

   第十話   落日、後日談

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ボートでの食事

二見に来た日は、ボートの中で昼食をとることが多いです。

かつては電気ポットでお湯を沸かし、カップめんを作るか、コンビニ弁当程度で済ませていました。
電気ポットのお湯の沸きあがりが遅いので、小型カセットコンロを導入したことは以前お話したとおりです。

Vfsh0028s 今、よくある食事のパターンの一つめは、出かける前に弁当を作ってフネに持ち込むケース。
弁当以外に、スープなどをフネで作って一品増やすなど、バリエーションも楽しめます。

 

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二つめは、あらかじめおかずだけ作って持ち込み、ごはんをフネで用意するパターン。

 

 

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三つめは、フネでパスタなどを調理するパターン。
ソースはレトルトを利用します。

 

現状では、このような簡単な調理で済ませていますが、やろうと思えば、炒飯や丼なども可能ではあります。
しかし、素材あるいは食材をその都度用意して持ち込む段取りは、どのパターンでも同じです。

この程度でも結構なバリエーションを楽しめるので、しばらくはこれらのパターンで続けていくと思います。

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