垂水区ジェームス山界隈

Img_0823ss_2神戸市垂水区の東部、塩屋から垂水駅にかけての間は、特に有名なわけではありませんが、ちょっと興味ある地域とおもっています。

海からこの近辺の海岸をながめると、水際から直ちに段丘が立ち上がっているのがわかります。海岸べりは現在は埋め立てされ、国道2号線、JR神戸線、山陽電鉄が平行して所狭しと走ります。このあたり道路と線路は階段状に施設され、山陽電鉄の線路は、段丘の上を走っています。画像下は山陽電鉄、滝の茶屋駅を通過する阪神直通特急,姫路行。

今年の春、阪神なんば線開通にともなって、この電車は近鉄奈良線に乗り入れます。播磨と大和が一本の線路でつながることは、なにか感慨深いものを感じます。

Dscn0016s まず、この地域に足を踏み入れる入り口は、山陽,滝の茶屋駅か国道2号線の塩屋一丁目交差点です。交差点は北行き道路がすぐ鉄道高架下となり、かつ狭路ですので、通行には注意を要します。
この北行き道路は浅い谷を登るような地形をなしており、鎌倉時代以前には前の記事で言及した『転法輪寺』があって、この地域に根をはり海峡を行き来する船や、街道を通る商人から通行税を徴収する拠点になっていたとのことです。徴収業務を行うお堂が多数建っていたため、『千坊ヶ谷』という字が伝えられています。

Dscn0110ss今このあたりは、「ジェームス山」と呼ばれていて、昭和の初期にA・Wジェームスにより外国人居住地として開発された所以によります。なを現在ジェームス山と呼ばれる範囲は、北の青山台や松風台あたりまでが含まれるようですが、本来はこの周辺が発端です。
画像上は千坊ヶ谷の坂をしばらく登っていくと右手に見える『ライオン像』、外国人居住地の入り口を守るシンボルです。画像下の建物は昭和9年に建築されたジェームス氏の居宅で、『望淡閣』とよばれています。現在は三洋電機の所有で迎賓館に利用されているとの事です。
できたら、一生のうちに一度はこのあたりに住居をかまえ住むことができればいいな、と思わせる地域です。

さて、望淡閣から足を西に進めると、周囲はぐっと庶民的な雰囲気となります。Dscn0097ss_2
滝の茶屋駅前の商店街より北上した道との四辻(画像上)を右折し北に向くと、その先はさらに急な登り勾配です。このあたりは王居殿とよばれる住宅街、その坂を登りきった突き当たりは上平尾公園、ここから周囲を俯瞰することができます。
ここは小説で主人公『垂耳王』が宮殿をかまえた場所という設定になっています。
画像下は西方を向いて高丸方面を望んでいます。その手前の低地が福田付近です。

ここ以外にも、眺望に優れた高台はいくつかあって、王居殿北隣の美山台と、最も標高の高い三洋電機塩屋教育訓練センターの敷地があり、こちらは宮殿よりも戦術的な砦に適した地勢に感じます。これらの台地をまとめて「東高丸」とも呼ばれ、王居殿も含めたこの周辺一帯は、南北朝時代から戦国時代にかけて、播磨の別所氏が出城のひとつとしてかまえた「東垂水城」の跡でもあります。

Dscn0091ss_2

王居殿の高台からかつて撮った同じアングルで海峡を撮ってみました。

前の記事でとりあげた五色塚古墳は赤○印付近で、撮影位置からは直線距離で2kmあまりでです。
逆に五色塚古墳から鉢伏山,須磨浦公園をバックに王居殿方面にレンズを向けた画像が下。撮影位置は赤○印。

     
大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ』  柿本人麻呂

この撮影取材のため歩いたのは冷たい雨が降る冬のある日。
明石海峡大橋が雨にかすんでなんとも幻想的な画。
はるか古代、明石の大王は、海峡と島を眺め同じ風を感じていた・・・・・、数年来の妄想が、今とりあえず何らかのカタチにでき、一息です。
わたくしは、またさらなる妄想にふけることにいたします。

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2009年新春OFF会

1月12日、横浜の善本さん宅でのOFF会に参加してきました。

Dscn0060ssこのOFF会の目的は、オーディオの同好が集まり、自作の機器を持ち寄って試聴することにあります。

こちらの会場へ寄せていただくのは今回で4回目となり、毎回顔なじみのメンバーも多く集まりますが、回をかさねるごとに新しい参加者のみなさんも増えつつあり、多彩な参加作品を拝見できる機会に恵まれています。

Dscn0071ss_2そもそも、この試聴会は、WEB上で多く紹介されている(代表的なサイトはこちら)全段差動アンプ他を、善本さんが主催されている(有)ソフトンが製造販売されるシャーシー、トランスなどを用いて完成させ、その出来栄えを確認し披露する目的が大きかったようです。
その後、全段差動アンプは急速な普及を遂げ、現在ではPPアンプにおけるこの形式の着工数は最も多いのではないかとおもいます。

Dscn0077ssさて、2004年の動物園試聴会あたりから様々な形式のアンプの参加も増加して、一時の差動一色から、シングル、SEPP、CSPP,半導体各種(バイポーラTr,FET,SIT,IGBT,ICなど)等々、多彩な形式のアンプが会する様相に変わりつつあるようです。

わたくしが会に持参したアンプは、二台とも半導体アンプで、画像にはなく、またほかの記事で改めて紹介したいとおもいます。

デジカメを新調しましたので、今回早速みなさんの作品を画像に収めようとシャッターを切りました。
なを、会に到着したのがお昼ごろとなったため、試聴を終えた作品もいくつかあり、すべての作品を画像に収められなかったのたのは、ちょっと残念ではあります。
画像からもれている作品の主の方々にはお詫び申し上げます。

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押熊八幡神社 旧蹟地

Z00017 奈良市押熊町の押熊八幡神社です。

大分県の宇佐神宮を本宮とする『八幡神社』は全国におびただしい数が存在します。
ご祭神は応神天皇、小説に登場する香坂、忍熊両皇子とは義理の兄弟になります。

こちらの八幡神社には、香坂王、忍熊王の旧蹟地が神社敷地内に存在します。Vfsh0025_2

 

 

その由来説明看板にはこうあります。

『・・・この日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の1人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。

Vfsh0024 古来より、連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の歴史を忍ぶことができる。忍熊王子神社の祭日は、4月18日で、当日は、宮座の者が参列して古来の儀式によりお祭をする。また農家では、昔からこの日を「だんご休み」といって農作業を休み、「よもぎだんご」を作って祖先にお供えするとともに、近隣縁者の家に配る風習がある。

ここ「押熊」は、鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の「添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。
なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「カゴ坂」は、押熊の祖先が、香坂王に因んでつけた名称であろう。』

Vfsh0026 この神社の南東約2kmには、両皇子を討伐し朝廷から排除した義母、神功皇后の陵墓があります。その規模は全長276m、奈良県内で第4位の大きさです。
それに比較して、両皇子を祀るこの旧蹟地を思うと、皇位継承の争いに敗北した皇族の悲哀を感じずにはいられません。

参考にさせていただいた こちらのサイトに、神社の詳しいリポートがあります。
近畿各地の名所旧跡、世界各地の紀行など盛りだくさんに充実しています。

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和気神社

岡山県和気郡和気町の和気神社です。

Img_0912s_2岡山方面にドライブに出かけ閑谷学校などを訪れたついでに立ち寄りました。

訪れた日は、好天にもかかわらず秋の観光シーズンから外れていたため、なんと参拝者は皆無。しかし、春の藤のシーズンや桜と紅葉のシーズンは、観光客が大挙して訪れるらしいです。

まず、参道の入り口で我々を迎えるのは、「和気清麻呂」像。この銅像は、かつて奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の玄関前にあったものですが、1983年に和気町に寄贈されたということです。わたしが小学生のころ遠足で博物館を訪れたとき、この像があった記憶がはっきり残っています。    

Img_0917sImg_0913s 社殿の配置はごくオーソドックスで、付近の風景とあいまって、ゆったりとした敷地に伸々とたたずんでいます。また、特筆されることのひとつに、和気神社には、和気氏の守護神である『狛猪』が参道鳥居前と拝殿前に鎮座しています。
道鏡事件をはじめ和気清麻呂に関する逸話など、その由来を関連サイトや文献を参照されると、いっそう興味深いことがわかるとおもいます。

Img_0914sさて、小説の展開に関する話に移りますと、記紀では、菟餓野において誓狩に出た香坂皇子を倒したのは赤い猪ということになっています。

一方、神社由緒によると、
『第11代垂仁天皇の皇子 鐸石別命(ぬでしのわけ)の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。その弟彦王(おとひこおう)を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その12代後裔が和気清麻呂公・和気広虫姫である。』
とあります。
このことより、様々な考察がなされますが、おそらく和気氏の祖先は、香坂、忍熊両皇子の討伐に、深くかかわっていたと考えるのが自然とおもわれます。

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兵庫県立考古博物館

この博物館は2007年10月に開館した新しい施設です。

Img_0890s 加古郡播磨町に在し、最寄の駅はJR山陽本線土山駅より徒歩15分と、奈良から訪れるには、出かける前に少々気合が必要です。
しかし、弥生から古墳時代にかけての住居遺跡「大中遺跡」に隣接し、先史時代において重要な地域の中心に位置していて、訪れることが無駄ではない立地であるとおもいます。
加えて、私がフネを保管している二見ボートパークより車で10分程度の至便な位置にあり、時間が許せば、いつでも利用できるメリットがあります。

さて、兵庫県は遺跡数において全国一位の座にあることはあまり知られていません。
これは、面積が広いことに加えて、瀬戸内海側、日本海側両方に他地域から文化を受け入れる窓口があったこと、九州など西日本から畿内に入る交通の要衝であったことなどが大きな要因であろうとおもいます。

Img_0900sImg_0899s この博物館は、そういった地域性を最大限に生かした展示がなされており、見ごたえがあり、一度訪れられることをお薦めできます。
古墳時代の準構造船の復元展示、高砂市竜山から奈良県見瀬丸山古墳まで運ばれた復元石棺の展示など目を見張ります。
概して、先史時代、有史古代の展示が充実しており、遺跡発掘調査の現場を再現した大規模な展示もあり、その重要性を理解することが出来ます。

また、地元有志の方々の協力を得て、来館者に積極的な学習参加を促している姿勢は、他の博物館に同様な例は少ない、すばらしい点とおもいます。

Img_0895sImg_0897s この画像の山陽道は、畿内-播磨の境界付近が、鉢伏山の裏を通る「古山陽道」として表現されています。
また明石海峡両岸に築かれた砦や狼煙台の解説など、小説の資料として有用な展示が多数ありました。

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五色塚古墳

短編小説「明石の落日」にまつわる場所の紹介、紀行第一弾です。

Dscn0042s 神戸市垂水区の山陽垂水駅と霞ヶ丘駅の中間に、この古墳はあります。
他の多くの王陵と異なり、1960年代から整備が進められ、きわめて美しい状態に復元された、全国でも珍しい例です。
復元後の全長は194mですが、近代にはいって、鉄道施設のため前方部が若干削り取られたため、本来は200m以上の規模があったとおもわれます。

Dscn0036s この古墳の埋葬者は不明です。記紀に記録さている香坂、忍熊の叛乱にまつわる説や、埋葬者は明石国造なる説、などが一般的にいわれていますが、そう簡単に因果関係を説明できない成り立ちがこの古墳にはあるようで、一段と存在の謎を深めているようです。
また、海を望む位置であるから、海運や漁業に深いかかわりをもつ人物…、という説明も同様におもいます。古墳の中心線を延長して南の方に向けると、淡路島内の重要な神社、遺跡に当ります。そういった細かい事柄に関しても、考察の幅を広げる必要があるようにおもいます。

わたしは、他にこの規模の古墳が近辺に存在せず、兵庫県内においても最大規模であること、畿内以外の播磨に存在することから、短期間ではあるけれども、ここ明石国に、大和王権と対峙する地方王権が存在したのではないかと考えています。
畿内では、三輪王権から河内王権に移行する過渡期に、なんらかの政治的な動揺にともなって、大和とは別の王権が存在しえた、そして王墓が築かれた、とうい仮説が時代的に符合するようにおもいます。

ここを初めて訪れたのは、ちょうど5年前。
そのとき淡路と海峡を望むこの場所で、“かつてここに大王が君臨していたんだ…”、そんな空気を感じた、その経験が今回の小説を書くスタートになっているようにおもいます。
小説を書いた後、先日、再びここを訪れてみて、5年前に増して一段と感慨深いものがありました。

天さかる いなの長道ゆ恋ひ来れば 明石の門より大和島見ゆ』  柿本人麻呂

海上から古墳や野島あたりを見上げて初めて知る、…海峡の両岸に漂う古代の息吹…。
速鳥の逸話とともに、マイボートの置き場所を、明石にこだわった理由のひとつでもあります。

Img_0974s おまけの画像は、垂水区名谷の『転法輪寺』。垂水区内で最も古い寺院です。五色塚古墳を訪れたあと、立ち寄りました。紅葉が実に深く、とってもきれいでした。この周辺は、奈良の秋篠路を彷彿させる地域です。この寺院に至る参堂口の集落は『中山』(所在地は垂水区名谷町)です。奈良市にも秋篠の北隣に『中山』があります。

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宙塾 PA活動近況

10月26日、御所市葛城公園でのリサイクルフェスタです。

Img_0926s_2 このイベントにPA係りとして参加して、今回で4回目となります。
この会場では、前回より、二組のスピーカーとアンプにより、音場の広角化を図っています。
メインのスピーカーは、従来通り40cmウーハーによる3way、サブは12cmフルレンジダブルによる小型システムです。
サブをスピーチ演者立ち位置の両サイドに置くことにより、はね返りモニターも兼ねています。
また、この後方は来場者の入場エントランスにもなっていますので、導入効果に関しても好都合です。

081116sImg_0939s_2 続いて、11月16日、奈良町センター「宙塾(おおぞらじゅく) こどもおん祭り発表会」です。

この日は朝からまとまった雨が降り、午前中、野外でのイベントは断念されました。
急遽、建物内の大会議室に会場を変更してイベントを進行。大人数の出し物は中止になりました。
ここでは12cmダブルが活躍。画像は紙芝居「良弁杉(ろうべんすぎ)」一座の公演です。

Img_0949s_2 午後から雨が上がり、再び野外のステージに会場を移動することに。
機材の搬送は、かなりしんどいものがありました。歳を感じます。

何回かイベントでPA係りをやってきて、いちばん問題点を感じたのは、機材の知識と重量物をかかえる体力を合わせもつ人材というのは、そう簡単にいない、ということでした。
アンプのパワーも十分ではありませんし、スピーカーの規模も、もっと充実したいという希望もあります。
それ以前に、お手伝いを引き受けてくれる方があれば、それも可能になろうかとおもいます。Img_0948s_2

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短編小説 「明石の落日」 第一話

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*** この物語はフィクションであり、史実に基づくものではありません。***

 佐紀の宮

最初の舞台は、四世紀末の倭国。佐紀の宮(奈良市佐紀町)である。
大王(おおきみ)の留守を預かる一人の王子がいた。
名は『香坂皇子(かごさかのみこ)』。足仲彦大王(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の第一王子である。
もう一人、第二王子の忍熊皇子(おしくまのみこ)が佐紀の近隣、忍熊集落(奈良市押熊町)の住民を治めていた。

『佐紀の宮』は、盆地北部の平城山(ならやま)山麓、現在の奈良市北部に存在したと推定されている。
祟神朝から景行朝にかけて繁栄した纒向宮(まきむくのみや,桜井市)にかわって、三輪王権後期に行政機構が遷都したと見られている。
なお皇居は、都とは別に、大王ごとに各地を転遷した。
この地方は、開化朝の時代より、後に和邇氏の祖となる有力豪族のテリトリーであり、多くの高級官僚、王妃を輩出する地域でもあった。
現存する佐紀盾列古墳群は、多くが王妃陵に比定されている。宮が存在したと見られる地域は、後世に平城京の造営で、その下層に埋もれてしまった。
三輪王権から河内王権に移行する過渡期に存在した都と見られるが、その規模や性質など、実態は謎につつまれている。

香坂、忍熊両皇子の父、足仲彦大王は、本来なら熊襲征伐のため筑紫(福岡県)にいるはずである。
大王には、両皇子の義母にあたる皇后、息長足姫(おきながたらしひめ=神功皇后)が同行していた。
しかし、息長足姫は、大王の方針に従わず、自ら受けたという神託に従って半島への侵攻を敢行した。
記紀に言う『三韓征伐』である。

足仲彦大王は、その遠征の直前に謎の死を遂げる。
半島への侵攻に反対した大王を排除しようとした、息長足姫と臣下の武内宿禰(たけのうちのすくね)による謀殺が疑われている。

また、息長足姫は遠征の直前に皇子を身ごもっていた。この皇子の父親も大王ではない可能性が大きい。
半島遠征の期間、足仲彦大王の崩御は、世間にも、大和の両皇子にも伏せられた。

日本書紀、古事記に記録された、息長足姫すなわち神功皇后による『三韓征伐』。
しかし実態は和平交渉なのか、国家間侵略なのか、単なる海賊行為なのか、はたまた祖国回帰支援などと、様々の解釈があるが、詳細の解説は割愛する。
ともかく、息長足姫は一応の成果を収めて筑紫に帰還した。
そこで誉田別皇子(ほむたわけ=後の応神天皇)を出産し、皇太子に立てる。

「この子を皇太子に立て、大和の香坂、忍熊皇子には退いていただきます。誉田別が成人するまでわたくしが摂政に就きます。」

息長足姫の意は決していた。正式な手続きを経ない皇位継承、政権奪取の野望である。

          ***

両皇子に宛てて、息長足姫は大和に書簡を送った。漢文による情報伝達、当時最先端のハイテクを大和の王族はすでに持っていた。

『このたび我々は、新羅 百済、高句麗を平定し筑紫に帰還した。』
『しかし先帝、足仲彦大王さまは熾烈な戦闘に倒れ、ご崩御された。』
『ついては、播磨国明石郡、大王が屯倉を造営され、ゆかりのある淡路を臨む位置に王墓を築造すべし。』
『我々は船団にて後日大和に帰還、途中明石に喪船を着け埋葬の儀をとり行う。』
『なお皇后には皇子、誉田別(ほむたわけ)が誕生した。王族、国民より多くの祝福があらんことを望む。』

これを読んだ香坂皇子は頭をかかえた。有事とはいえ用件すべての連絡が遅延していた。
実の父を亡くした悲しみ、今後予想される喪に関わる多忙、皇位継承の手続き、義母、息長足姫と新王子への対応などなど。
多くの事柄が彼の思考回路を巡り巡って渦巻いた。

「忍熊皇子を呼べ!倉見別はおらぬか?!」

息長足姫の送った書簡、これは皇后が打った第一の策謀である。それを両皇子はいまだ気付いていない。

「これは天下の一大事。兄上さま、我々はどうすればよいのか?。」

呆然とする忍熊を前に香坂は、

「韓国(からくに)を平らげた戦功は、義母上と新皇子に民々が従う材料として余りあるであろう。それに比べ我々は…。」
「義母上は我々を試されているのだ。この試練を乗り越えてこそ大王にふさわしい人材と。」

「兄上、まず、陵(みささぎ)築造のため、急ぎ明石にまいりましょう。」

「それにしても、人が足りぬ。倉見別はどう思う?。」

王族の臣下、倉見別(くらみわけ)は、近江の中央部を拠点とする地方豪族である。その後裔が後の犬上氏となる。『倉見』という姓から、物資補給担当大臣と思われ、本拠地の近江と、それより東の東海地方とのつながりが濃い雰囲気をもつ人物である。

「わたくしの郷里を通じて、東国から人夫をある程度集めることはできましょう。」
「しかし、現地、播磨でも地元衆の手を借りぬと、とても十分な人手とはいえませぬ。」

「大王さま(仲哀天皇)が営まれた屯倉が淡路にある。そこからも応援を請おう。」
「さあ、皆の者、出立の用意をいたすぞ。」

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第二話

短編小説「明石の落日」

  大王の喪船

山陽道を西に向かうと、須磨の先は鉢伏山の北側を通る峠道、『古山陽道』である。
当時、須磨浦から塩屋にかけては、海岸まで断崖が達し、海岸沿いに街道はなかった。
摂津の国はここまで、多井畑の峠(須磨区多井畑)を越えると、そこは播磨の国明石郡である。
峠を降り福田川が流れる名谷を南に行くと、やがて明石海峡と淡路島が目の前に広がる。

香坂の一行が垂水の集落に到着すると、出迎えたのは明石国造(くにのみやつこ)代行の福田宿禰(ふくだのすくね)であった。

「皇子さま、遠い道のりをようこそおいでになりました。此度の大王さまのご崩御、心からお悔やみ申し上げます。」

「福田殿、此度は迷惑をかけるがどうかよろしく頼む。」

「はい、ただご覧のとおりわが国は貧しゅうございます。この狭い谷ですら『福田』と申しておるありさまで。」
「どうか、民々にはお手柔らかにお願い申し上げます。」

香坂は生まれつきの宮廷生活のため、中央の大和と地方とのギャップ、つまり「地域格差」を十分認識していなかった。
それとは裏腹に陵築造のための労働力は順調に集まった。香坂はこれを朝廷への支持と勘違いしていた。
実は、にわかに降って沸いた公共事業に群がる在地土建業者のような手合だった。

明石海峡に臨む海岸線は、多くが段丘となっていて水田耕作には向かない土地柄だった。
しかし、眺望抜群のウォーターフロントであり、陵の建設候補地としてはとても贅沢な立地だった。

          ***

皇后の到着は後わずか、石室は間に合わないので、にわか造りの埋葬場所を丸太の枠組みでこしらえられた。
工事は急ピッチで進行し、盛り土は大方の姿が出来つつあった。
そこへ筑紫より武将の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が一足先に帰還してきた。

五十狭茅宿禰は、その後裔に吉師部となり、主に半島との外交にあたった氏族であるらしい。この当時、五十狭茅姓は敵味方両方に見られる。一説によると、出雲王家の分派とも言われるが、謎の家筋である。当時、五十狭茅一族の代表格である彼は、朝廷の重要な軍事ポストにいる中で、正義感で他の官僚と意見を異にし、皇子側に味方した人物である。

香坂は彼の労をねぎらった。

「五十狭茅宿禰殿、此度の遠征、まことに大儀であった。義母上と皇子は息災であるか?。」

「お言葉、ありがたき幸せ。しかし、香坂皇子さまには立ち入ってお伝えしたいことが…。」
「実は…、息長足姫さまは、この度お生まれになった皇子さまをお世継ぎに立てるおつもりであらせられます。」

香坂は「さもありなん」という面持ちで、五十狭茅宿禰の話を聞いた。

「香坂皇子さまは正当なお世継ぎであらせられます。それにつけ姫さまのご意志は朝廷への反逆に等しい…。」

「五十狭茅宿禰よ、世継ぎのことを考えるのはまだ早い。誉田別皇子は義母上の実の子、義母上のお気持ちはお察しできる。」
「義母上がご帰還になれば、いずれ世継ぎの手続きが行われよう。それまで我々は、まず亡き大王さまを葬るため、陵の築造に勤しまねばならぬ。」

なおも陵の築造工事は続く。大王の亡骸を受け入れるため、石拭きの仕上げも一部で始まった。
淡路島から石を運ぶため、多数の運搬船が、ひっきりなしに海峡を行き来する。
西方の狼煙台から信号が上がった。皇后、息長足姫が船団を率いて帰還、明石に接近した知らせである。

海峡の両岸が視界に入ったころ、息長足姫は造築中の陵と海峡を渡る船々を遠目に見て言った。

「武内よ、あれを見なさい、敵はすでに砦を築き大勢の軍勢で待ち構えている。速水乃門(海峡)は多くの軍船で塞がれておる。」

「彼らはおそらく誉田別皇子さまがお世継ぎになられることを妬んでおりましょう。」

武内宿禰(たけのうちすくね)は、一説によると200年以上生きた人物ということだが、これはおそらく数人の人物を一人にまとめて伝承されたものであろう。ともかく、代々大王につかえた行政のトップである。この任務では、陸海軍大臣も兼任している、第二次大戦中の東條のような存在だ。

「武内宿禰よ、兵士を船底に潜ませ喪船に乗り、まず香坂をおびき寄せるのじゃ。」

息長足姫は、第二の策謀を発動した。

一方、陸上では香坂皇子が喪船を迎えるため、船に乗り込もうとしていた。

「香坂皇子さま、お気を付けあそばせ、武器をお持ちください。護衛の兵士をもう少し…。」

「五十狭茅宿禰よ、案ずるな。義母上さまとは話し合えば解って頂けるであろう。」

香坂は船に乗り込むと、喪船に向かって進みだした。
大王の亡骸を乗せたに装った喪船は、武内宿禰が船首に立って香坂を待った。

「武内宿禰殿、お役目大儀である。遠路ご帰還お疲れであろう。」

「香坂皇子さま、お迎えまことにかたじけのう存じます。」

武内宿禰はすかさず鉾で船板を「トン」とたたいた。
船底より兵士が一斉に飛び出し、香坂の船に飛び移った。

「なにっ?、義母上さまは我らに刃を向けられるというのか?。」

武内の兵士と、香坂のわずかな護衛との間で船上は大混乱となった。
瞬く間に香坂の直衛は鎮圧され、後続の船団からは矢がはなたれ、別の船に乗る香坂の残存兵は撃退された。
香坂皇子は深い傷を負いながら果敢にも応戦したが、敵の振り下ろした刀をかわしたタイミングでバランスを崩し、落水した。

香坂は討ち取られたかに見えたが、その後しばらく行方不明となる。

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第三話

短編小説「明石の落日」

 菟餓野

忍熊皇子と臣下たちは、海岸から一部始終を見届けたが、成すすべはなかった。

「兵を集め態勢を立て直すのだ、早く!。」

いくさがが始まったことに感づいた労務者たちは、いちもくさんに現場を離れようとして、海岸周辺は大混乱となった。
そんな時、垂水北方の高塚山(西区学園都市)の狼煙台から信号が上がった。倉見別が報告した。

「布施畑(西区布施畑)方面から軍勢が接近しているようであります。」

「どこの軍勢か?新たな敵か?。」

「いえ、よくわかりません。『イ・ノ・シ・シ』狼煙台はそう言っておるようです。」

「弟彦王(おとひこおう)の一族でありましょう。彼らは丹波の野蛮な土豪で、猪を捕らえその肉を食らい、猪の毛皮を纏う習慣がございます。」
「鴨あたり(賀毛郡=兵庫県加東市付近)では彼らに手を焼いています。まるで山賊のごとく。」

福田宿禰が忍熊らに諭した。
五十狭茅宿禰、倉見別はあきらめの表情を隠せなかった。

「まもなく、息長足姫さまの兵が上陸してくるでありましょう。新たな軍勢と合流すれば、敵は強大な兵力になります。」
「我々の主任務は陵の築造、ここには武器が十分にありません。ひとまず住吉(神戸市灘区)の屯倉(みやけ=朝廷の倉庫)まで引きましょう。」

「やむをえないな。しかし兄上はほんとうに倒れられたのであろうか?」

「忍熊皇子さま、兄上、香坂皇子さまはご存命であることを願い、私どもが捜索いたします。」
「弟彦王の一族がこの集落に達したら、忍熊皇子さまが東へお向かいになる間、適当な用件を作って足止めをいたしておきます。」

福田宿禰の提案は、忍熊たちには心強かった。
武将直轄の兵士、兵士でないもの、かき集められるだけの人員を集めて忍熊皇子たちは急遽、明石を離れた。

それからしばらくして、弟彦王の軍勢が明石に到達した。間一髪で忍熊らは脱出に成功した。
弟彦王は、事前に息長足姫から援軍の要請があり、明石で合流する予定になっていた。

「弟彦王さま、ようこそおいでを…、」

福田宿禰は、敵対心がないことを示そうとしていたが顔はこわばっていた。

「おお、ここの長(おさ)か?、ちょっとじゃまするぞ。大和の姫さんはまだか?もう日が暮れる、メシでも食わせろ。」

「はい、息長足姫さまはあそこ、船の上でございます。」
「お食事は炊守(かしきもり)がご用意いたします。今晩お休みでしたら、五色山の陵と高丸の砦をお使いください。」

「それにしても大和のバカ息子たちは逃げ足が速いのう。福田よ、おまえ後で姫さんからお咎めがあるぞ、ハッハッハッ。」

いくら待てども息長足姫の船団は、上陸してこなかった。
弟彦王は足止めを食って、その日の晩は垂水で待機せざるを得なかった。夜半に姫の船団は東へ向かった知らせが入る。

          ***   

一方、海峡上の息長足姫の船団は、海流の変化に翻弄されていた。地元の漁師が言う『イアイニチ』である。
海峡中央に近づくにしたがって船足の逆、西流が激しくなり、大きな三角波が船を襲う。船は思うように進むことは出来ない。
息長足姫は神託を請うた。なにやら神がかった様子で姫は臣下に指示を下した。

「もうすぐ波はおさまるでしょう。そののち真っ直ぐ武庫(西宮市)の水門(みなと)へ向かうのじゃ。神はそう申されておる。」

陸上では弟彦王の軍勢が待機しているが、合流することは断念された。
西流がおさまり海流は反転、東流に乗って無事海峡を通過、その日は暮れた。

岩屋(淡路市岩屋)で一夜を過ごし、船団は一路、武庫をめざし進んだ。
武庫に近づいたとき、息長足姫は武内宿禰を呼び新たな指示を与えた。

「武内よ、そなたはこの子、誉田別を守って紀伊の国まで送り届けるのじゃ。」
「これからいくさはより激しゅうなるであろう。いくさ場にこの子を連れるのはいかにも心許ない。」

「さすれば息長足姫さま、いくさ場は我々におまかせいただき、姫さまが皇子さまとともに、紀伊へ向かわれては?」

「いえ、これは神託じゃ。陸に上がったら、わたくしには神託に従ってやらねばならぬ仕事がある。どうか誉田別をよろしく頼む。」

武庫に上陸した息長足姫とその軍勢は、別れを惜しむ間もなく紀伊に向かう誉田別と武内宿禰を見送った。

          ***

さらに場面は変わり、命からがら明石を脱出し、住吉の屯倉にたどり着いた忍熊皇子の軍勢である。
すぐ後方から、いつ弟彦王の軍勢が襲ってきてもおかしくない状況に彼らは気を許す暇もない。
弟彦王の軍勢は、夜明けとともに垂水を出立、住吉の西方、菟餓野(灘区都賀川周辺)まで進出してきた。

忍熊皇子の軍勢は、屯倉を陣地に仕立てて弟彦王の軍勢とにらみ合った。
物見からは、息長足姫の船団が東へ向かった報告が入る。どうやら住吉より東に上陸する気配である。

忍熊皇子は、西に弟彦王、東に息長足姫の軍勢に挟まれた。

「東へ、大和の方角に進もう。我々は義母上の軍勢と戦う。」

忍熊皇子は静かに決断した。

「されば、『しんがり』はいかがいたされる?弟彦王の軍勢と相対するのは?」

五十狭茅宿禰は、自分がしんがりを務めようとしていたが、隊列の後から名乗り出たのは下級武将の椚麻呂(くぬぎまろ)だった。

「忍熊皇子さま、わたくしは佐紀の宮で衛兵をいたしておりました椚麻呂と申します。」
「是非、是非わたくしをしんがりに、弟彦王の軍勢を留める盾にお使いください!。」

「よくぞ名乗り出てくれた、礼を言うぞ。これを身に着けていくが良い。」

忍熊は自分が身につけている同じ装束を差し出した。

「椚麻呂よ、これから汝は『香坂皇子』となれ。これを身に着け弟彦王の前に兵士たちを司れ。兵の士気も上がるであろう。」

「ありがたき幸せ、これでわたくしは、あの世に行ってもなんの悔いもございません。」

椚麻呂だけでなく、忍熊の軍勢だれもが死出の旅を覚悟していた。
まもなく忍熊の本隊は、武庫に上陸した息長足姫率いる軍勢に向け出立する。
それに先駆け、ひそかに椚麻呂と少数の兵は、都賀川沿いを山手に向かい斜面に仮の桟敷を仕立てて陣取った。

「弟彦王よ、よく聞け!われこそは先の大王の世継ぎ、香坂皇子なるぞ!。尋常に勝負いたせぃ!!。」

「ようやく出て来おったか、バカ息子が八つ裂きにしてやる。ものども、かかれー!。」

怒涛のごとく猪の大群、いや弟彦王の兵は突撃してきた。
桟敷から矢が放たれ、猪の毛皮を纏った兵士が矢に倒れ徐々に脱落するが、厚い毛皮で致命傷を免れ、すぐに起き上がる。
椚麻呂の兵も一人一人と倒れていくが、思いのほか長い時間を持ちこたえた。

ついに、弟彦王の兵が桟敷の真下まで達し、兵たちは桟敷の土台を掘り起こし始めた。
それは、まさしく地中にいる獲物をあさる猪の姿そのものだった。
桟敷は崩れだし、椚麻呂は地面にたたきつけられた。

兵たちの後方から、赤い毛皮を纏いひときわ大柄な男が現れた。弟彦王である。

「香坂皇子、討ち取ったり!、覚悟!」

勝鬨があがり、身代わり『香坂皇子』、椚麻呂は菟餓野に果てた。

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